この疵痕は、忘却の証
くりっと身体を反転させてこちらを振り向いてきた龍宝の顔は、こちらまで悲しくなるくらい悲痛な泣きっ面で、こちらをじっと睨みつけてくる。「おい龍宝」
その顔を何とか止めさせたくて名前を呼ぶと、いきなり拳が振り上げられ、所構わず若干痛い程度の力で引っ切り無しに何度も殴りつけてくる。その拳の嵐は止むことなく、数分は殴られ続けていたと思う。こっちもいい加減、怒りが湧いてきてしまいつい大声が出てしまった。
「おいっ、止めねえか! 龍宝!! 止めろこのばか野郎がっ!!」
すると、ピタッと拳が止まり力なくその腕が下ろされ、ぽたぽたっとヤツの眼から大粒の涙が何滴も零れ落ち、シーツに染みを作る。
「……分かってるんです。横入りしてるのは俺で、あなたにズルいことさせてるのも全部、俺の所為だって分かってるっ……!! けれど、彼女に愛してるって、そう言った時……胸が張り裂けそうになった。嫉妬と、後はなんでしょうね。俺にも分かりません。もう、何も分かりたくないっ……!!」
そう言って、崩れるようにベッドに膝をつき、両手を顔に押し当て泣き崩れてしまう。
ひどくしゃっくり上げるヤツは心底に傷ついているだろう。肩が引っ切り無しに上下して、しきりに鼻を啜っている。
「……泣くなよ、龍宝、泣くなって」
だがしかし、ヤツは首を横に振るばかりで泣き止む気配は一向に見えない。
さすがの俺もどうしていいか分からなくなり、そっと抱き寄せようとするが強い抵抗に遭い、それでも何度も挑戦しては振り払われるといったことをどれくらい繰り返しただろうか。
その間、ヤツは泣きっぱなしでしきりにしゃっくり上げては俺の腕を拒否してくる。
だが根気よく待つつもりで、懸命に腕の中に収めようと努力をした。
やっぱり失敗した。撫子が欲しがっていた言葉を、いくらなんでもこいつの前で言ってはいけなかった。そりゃそうだろ。俺が浅はか過ぎた。席くらい外せばよかったものを、浮気相手のこいつの前で、彼女の撫子と話するなんて考えてみりゃとんでもなくデリカシーっつーモンがねえ。
鳴戸でもあるまいし。
そして何十回と拒否されたがいい加減、ヤツも疲れてきたのか漸く大人しくなり、力強くその身体を抱くと、そのままヤツはしな垂れかかってきて、背中に腕が回る。
それでも未だ泣き止まず、しゃっくり上げながら涙声でこんなことを言い出してきた。
「俺と……別れます? いえ、別れるなんて……正式に付き合ってなんて言われても無いのに付き合うって、おかしいですね。俺が勝手にあなたを引き留めてただけで、恋人同士になったわけでもない、ただの浮気相手に付き合うって……ホント、笑っちゃいますね。何もかも、独り善がりで……笑うしかない。始さん」
「……なんだ」
「彼女のところへ、帰ってください。あなたのこと、ずっと引き留めていたけど……でも、やっぱりそれじゃいけないって、彼女と電話してるあなたの声を聞いて思いました。柔らかくて、優しくて、甘い声。俺には決して聞かせない、声。やっぱり、あなたは俺とこんなことしてていい人じゃない。……帰ってください」
「いやだっつったら? 俺は帰らねえぞ。今日はお前んち泊ってく」
するとヤツは俺の身体を突っぱねるようにして離れ、激昂して大声で怒鳴ってくる。
「何故分からないんですか!! これじゃ誰も幸せになれない!! 誰も幸せじゃない!! こんな関係、間違ってるっ……! だから、俺は敢えて身を引こうと……そう思っているのに!! あなたのことが好きなのにっ、離れなければならない俺の気持ちも考えて!! あなたは俺が居ちゃだめだ。彼女を……どうか、大切にしてあげてください。俺の分まで、幸せに……」
言葉はそれ以上続かず、また下を向いて泣きじゃくり始めた。
「……本気か、それは。本気で言ってんのか。お前はいいのか、それで」
ヤツは言葉なく、そのままの姿勢で涙をぽたぽたと零しながら何度も頷いた。
「さよなら、ですね。……今回で、本当の……さよなら」
そのセリフを聞いた途端、頭の中で何かが弾けそれは衝動となって現れ、何も考えないまま、俺はヤツをベッドに押し倒していた。そして、肩口に思い切り噛みつく。
「ああっ!! や、いやっ!! は、離してっ、離してください!! でないと俺たちはもうっ……本当にだめになってしまう。これからの普通な関係も築けなくなってしまいます。ですから、離してっ……離してください!!」
ヤツの大声で眼が覚め、肩から歯を外しヤツを見るとヤツは泣きながら笑っていた。
「さよならです、始……いえ、斉藤さん。今度こそ、本当のさよなら、しましょう」
もう俺に、なにも言えることは無かった。
ベッドから降りて床に足を付けると、ふとヤツの指が背中を撫でた。
「……いけませんね、爪痕が……俺のつけた爪痕が背中に残ってます。これでは、不審に思われます。よく効く傷薬、塗りますからちょっと待っててもらえますか?」
「ああ、頼むわ」
するとヤツは後ろでごそごそと動き、背中に冷たくてぬるついたものがそこかしこに塗られ、ヤツの冷たくなった指先が背をなぞっていく。