海底から見えた唯一の光

 その拍子に、グラスが割れて破片が飛び散り酒はテーブルの端を伝ってアスファルトに零れ、流れてゆく。そのぽたぽたという音を聞きながら、俺はなりふり構わず怒鳴り散らしてしまう。
「好き勝手言うんじゃねえ!! 俺の好きなあいつはっ、あいつはっ……あいつは、一人しかいねえ。俺が好きな、龍宝が泣いてんだ。俺だって、俺だってなあ!! あいつを幸せにしてやりてえよ! ずっと笑顔でいて欲しいって、思う! だが、それは俺の役目じゃねえ。俺じゃだめなんだ。どうしてだ!! なんで、俺じゃいけねえんだ……なんで、なんでなんだ……分かり切ってる答えだが、どうしても納得いかねえ。なんで、俺じゃねえんだよ!!」
 テーブルに突っ伏し、拳を握りしめるとオヤジの呆れたような声が聞こえた。
「もう、答え出てるじゃねえですかい。幸せにしたいんなら、してやりゃいいんですよ。自分じゃだめだとか、決めつけてる場合じゃねえんでしょう?」
「でも、あいつには他に想い人がっ」
「だけども、おにーさんが幸せにしてやりたいんでしょ? その人じゃなくて、おにーさんがしたいことなんでしょ? だったら、行ってやりなさいよ。その泣いてる子の涙止められるのは、おにーさんじゃないの?」
「いや、だめだ。許されねえ。それは許されねえんだ。だって、あいつには……」
 鳴戸がいる。
 ぐっと拳を握りしめ、テーブルの上で割れたガラスの破片を見る。
 龍宝は、なんて言うんだろうか。俺でいいって、言ってくれるのか。俺には、その権利があるのか? あいつを幸せにする、権利が俺に……ねえだろ。
「……なあ、オヤジ。人一人幸せにすんのは大変なことだ。いつだって笑っていて欲しいと思うのも、傲慢だと思う。俺は、おれは……ヤツを、龍宝を幸せにしたい。傍に居て欲しい。それって、許されると思うか? 俺には、他に好きなヤツがいるのに。そんで、あいつにも決まった男がいるのに、そんなんが許されると思うか。俺は思わねえ」
「へえー、そんな複雑な事情があったの、おにーさん。そうさねえ……関係ねえと、思っちまうのは俺もおにーさんと同じ思いだからかねえ。幸せにするのに一人も二人もねえと思うがねえ。二人幸せにしたいなら、二人幸せにすりゃいいじゃない。世の中、四角に考えるモンでもねえと思うがね。丸い、丸いよ、おにーさん」
「あんたは、そう言うんだな。……許されるか? 俺は、許してもらえるのか?」
「それはおにーさん、あんた次第だね。とにかく、泣かせたあの子の涙を止めに行かないと。まずは、それからだねえ」
 気休めでもなんでもいい。このオヤジがなに考えてようがもはや関係ねえ。
 俺は、龍宝の涙を止めに行く。抱きに、行く。この腕に、抱いてみせる。誰にもなにも言わせねえ。文句があるならかかって来い。それが鳴戸、例えお前相手でもだ。
 撫子のことは好きだ。だが、俺は龍宝が好き。それでいいじゃねえか。俺は、今はとにかくヤツの涙を止めてえ。優しく抱き寄せてやりてえ。それでいい。その場しのぎでも構わねえ。
 俺は行く。
 さっと懐に手を入れて財布を取り出し、二万円をテーブルに叩きつける。
「オヤジ、ありがとよ! これは熱燗代と壊したグラス代だ。後はなにかの足しにしな」
「あいよっ、悪いねえ、まいどっ!」
 オヤジの簡潔な返事を背に、来た道を全速力で走って引き返す。
 泣くな、龍宝、泣いてんじゃねえぞ。ヤツのことだ、怒っているというより確実に泣いているだろう。悲しんでるはずだ。俺が、自意識過剰のアホ男でなければ、ヤツは泣いている。
 その涙を、俺が今から止めに行く。待ってろ、龍宝!
 息を切らしながらマンションへと辿り着き、上階を目指す。ヤツの部屋に近づけば近づくほど、何故か温みを思い出す。ヤツの身体は程よくあったかくて抱くと心まであったかくなった。
 その熱を、どうして手放そうとしてしまったんだ。
 そうして階段を登っていると、上から足音が聞こえた。ふと顔を上げるとそこには、龍宝がきちんとスーツを着込んで立っていた。
 そして俺を見るなり表情を凍らせるがすぐに立ち直り、そのまま下りてくる。
「龍宝!!」
「……大きな声は止めてください。マンションの住人に迷惑でしょう。それに、俺とあなたは終わったはずだ。完全に、終わった。あなたが終わらせたくって終わらせたんでしょう。それを、今さら戻ってきてなんです。そこ、退いてくれません? 下に降りたいんです」
「龍宝……」
 ヤツの冷たい態度に心が折れそうになるが、すぐに立ち直り俺の傍を通ろうとするヤツの身体を掴まえ、腕に抱くと激しい抵抗に遭った。
 思いっ切り背中や胸を拳で殴りつけてくる。こいつの加減の無さはもはや仕方ねえがとてつもなく痛ぇ。
「やっ……止めっ、離してっ! 離してください!! もう、終わったんでしょう!?」
「聞け、龍宝。今度は俺の話を聞いてくれ! 俺……お前が、お前のことが好きだ。……愛してんだ」
 ピタリと抵抗を止めたヤツは信じられないような、唖然とした表情で俺を見上げてくる。
「お前にこっ酷く振ってくれって言われて、いろいろ言われて初めはそうかと思った。だから、突き放したが……気持ちに嘘は吐けねえな。嘘を吐いて生きるくらいなら、死んでやる。龍宝、好きだ。誰よりも、お前のことを……」
「そんな、だってあなたには撫子さんが……」
 ヤツにずいっと近づき、両手を拡げて思い切って身体を抱くと、ぐいっと押し返されるがさらに迫ってぎゅうぎゅうと抱きしめて、片手をヤツの頬に押し当て体温を感じる。

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