無垢な祈りならば

 そっと腕を解放してやると、いきなりヤツの腕が伸びてきて俺の背広をきゅっと握ってきやがった。
そして、ヤツ得意の切なさを前面に出したようなツラでこっちを見てくる。
「斉藤さん……」
 その手は力なく落とされ、ぎゅうっと龍宝が拳を作って握りしめた。何かに耐えているような、そんな表情だ。
「あのー……お二人とも、もう帰りません? 皆さんとっくに帰っちまいましたよ」
 そう言い出したのは猪首で、気づくと部屋の中には誰も居なかった。ただ、猪首だけが所在無さげに扉のノブを持って立っている。
「……行くぞ」
「はい……すみません、いきなり。失礼でした」
 それには返事をせず、ヤツの背に手を添えて部屋から出る。
「あ、あの斉藤さん」
「ん? なんだ。ああ、背中か。いやだったか、すまねえな」
「いえ、いえ! ちが、違います。ただ……少し、思い出しただけです。あの時のことを……あの、熱を」
 俺は、なにがとは聞かなかった。たったそれだけで、すべてが分かってしまったからだ。すべてというか、ヤツが何を言いたかったのかが分かっただけだが、それでも、今のセリフで充分伝わる。
 ヤツも、恋しがっている。広島での、あの二人だけの時間を。鳴戸じゃねえ、俺との時間をだ。
 だから、それが分かったからなんだって話だけどな。
 もう二度と、ヤツを泣かせるような真似はしない。いくら心がヤツを欲しがろうが、身体が欲しがろうが、ヤツの泣き顔は見たくない。
 だから、俺は身を引くことにする。帰る場所も、あるしな。撫子のところだ。ズルいと分かっていながら、俺はいつまでもヤツの切なげな表情を頭の中で反芻していた。
 キスして抱いたら、笑うかな。
 なんて愚にも付かないことを想いながら、俺はヤツと共にめしを食うべく共に鳴戸組のヤツが運転する車の後部座席へと乗り込んだのだった。
「しかし、あったかくなったな。風がそんなに冷たくねえ」
「……そうですね。もうすぐ、春です。今日も風が強かった。季節は、移ろいますねえ」
 そして、俺たちが過ごした時間も、薄まっていくのだろう。そして、色褪せて消えてゆく。それが何故か切なく、つらい。
 ふと目が合うと、また黒目が揺れてなんだか潤んでいるようにも見える。それがすげえキレーで、思わず手を伸ばしかけてハッと気づき、慌てて手を降ろした。
 危なかった。
 ヤツといるといろんな誘惑があって、いつもそれに負けそうになる。
 龍宝は俺の手を見ていて、その視線に気づくとそろりとヤツの手が伸びてきて俺の指先に触れた。そこから、まるで灼熱の鏝でも当てられたかのような痛いような熱さが拡がり、その感触が何故かつらいのではなく心地よく感じ、俺からも指先だけを伸ばしてヤツの手を突いた。
 熱いような、痛いような、それでも感じる心地よさってのはなんだ。初めて感じる感覚だ。
 ちらりとヤツを見ると、ヤツはほんのり微笑んでいて少しだけ、ほっぺたが染まっているのが薄暗闇でも見える。
 無邪気ともいえるし、また色っぽくも見えるその表情につい見入ってしまうと、ヤツも俺の視線に気づいたのか顔を上げた。
 そして、意味があるような無いような、そんな見つめ合いに発展し、俺の手はまた、ヤツの頬を求めて彷徨い始めてしまう。
 この手は、撫子のモンだろ。なのに、なんでこいつなんだ。俺が求めているのは、ヤツ、龍宝だ。そうきっぱりと自覚した途端、燃えるような欲情が足の先から頭のてっぺんまで突き抜け、思わず衝動に負けてヤツのことを押し倒しそうになるのを済んでのところでこらえ、絡まっていた視線を外し前を向いて、ついでに手も仕舞った。
 これ以上、ヤツになにかしてはだめだ。
 期待も、だめだ。ヤツには鳴戸がいるだろうが。誰よりも愛して止まない、鳴戸がいる。
 ぎゅううっと目を瞑って開けると、そこには窓ガラスに映った龍宝がこちらを見ているのが眼に入った。薄ぼんやりとしか見えないが、その表情には見覚えがある。
 欲情した時の顔だ。
 どくんっと大きく心臓が鳴る。なんでだ、なんでそんな眼で俺を見る。お前には鳴戸って野郎がいるだろうが! 俺じゃなくて……俺でも、いいのか? 奪っちまっても、いいのか?
 果てしない疑問は頭の中でぐるぐると巡り、俺を混乱させる。
 奪ってもいいなら……奪っちまうぞ。本気で、俺のモンになる気があるなら、奪っちまうぞ!! それでいいのかお前は! 違うだろうが。求める相手が違ってる。そうは思えど、どこかそのヤツの表情に高揚している自分もいて、さらに頭が熱くなってくる。
 そんな車の中ともおさらばして、改めてヤツと向き合う。
 俺より背が低いヤツはじっと俺を見つめていて、その黒目はやはり、濡れているように揺れていた。
なんともそそるその眼から逃れたく、顔を横に背けて龍宝の乗っている車へと向かった。
「そういえば、答え聞いてなかったな。なにが食いたい? お前に任せる」
「俺は……そうですね、今日はピザとか、後はパスタなんか食べたいです」
「ん、分かった。イタメシ屋に行くか。俺さ、なかなかいいイタメシ屋知ってんだよ。そこ行こうぜ。お前は隣に乗りな。俺が運転する。車のキー貸せ」
「いえ、道案内していただけたら俺が運転しますよ」
 頑固だな。隣に乗ってりゃ楽なのに。ま、生真面目なヤツの性格ってやつか。そういうとこも、好ましいというか……こいつのいい部分だよな。
「ま、いいから乗れや。道案内って結構めんどいんだよな。さ、乗った乗った! 腹減ったー! 早くめし食いてえからキー寄越せって」
 すると、しぶしぶ車の鍵が手渡され、早速車の乗り込んで出発だ。
 さすがに極道の乗る車だけあっていい車だ。走り心地がいい。そのまま駐車場から出て道なりに走ってゆくと、ヤツの視線が気になった。
 なんで、見るんだ。

×
「#学園」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -