氷砂糖の幸福

 きっかけは、ほんの些細なことだった。だが、そのことが鳴戸と龍宝、二人の仲を引き裂くほどの大事件に発展するとは、その頃の二人には想像もつかなかった。
 ただただ、毎日が幸せでそして少しの平和と愛情に満ちた世界が二人を包み込んでおり、世界は二人のためにあると、何処かで思っていた。それほどまでに、温かな日々の尊さはそんなことを勘違いさせるほどにゆっくりと、過ぎていたのだ。
 そんなある日のことだった。
 初夏の日差しが気持ちよく、街路樹もその緑を日々濃くしてゆくような、そんな澄んだ空気を感じながら、龍宝は窓を開けて車を走らせていた。
 今日は鳴戸と飲みに行く約束をしている。その他、特に鳴戸組事務所に用はなかったが、鳴戸の迎えもあったし、事務所に顔を出しておくのも仕事のうちだ。
 鳴戸組組員になってほんの数年で、瞬く間に龍宝の名は極道界に知れ渡り鳴戸組の龍宝というだけで震え上がる輩までいるほどに、その活躍ぶりは目覚ましく、鳴戸からもよく感謝の言葉をもらうことが多くなった。
 他の誰に褒められようがさして嬉しくは無いが、鳴戸はべつだ。彼に褒められるとほんの些細なことでもとてつもなく嬉しい。
 そのご褒美が欲しくて、頑張っているという理由もあるが。
 鳴戸に認められる男でいたい。または、そういった男になりたい。いつでも頼られていたい。その精神が龍宝をいつでも突き動かす。そして、強くしてゆく。
 そしてそんな頃、龍宝の気持ちにも変化が起こっていた。というのも、鳴戸をただの親分として見られなくなっていることに気づいたのだ。
 初めは、ただとても大事にしてもらっているのが分かっているから、ただ単にそのことが嬉しいだけなのかと思っていた。皆に好かれている鳴戸に特別扱いされている。その優越に浸りたいだけなのかと思っていたのだが、違った。
 というのも、ある日。
 きっかけは突然やってきた。あの日は未だ真冬と呼べる季節の中、雪が降っていて、車で組事務所へ向かった龍宝は到着するなり走るようにして凍った空気を切って玄関扉を開けると、そこには鳴戸が立っていた。
 その姿を眼に入れた途端、あれはなにが起こったのだろう。未だに謎が謎を呼ぶが、ぱあっと鳴戸の周りだけが光って見えたのだ。そして龍宝の目は鳴戸の唇へと行き着き、じっと見つめた後、湧き上がってきた衝動は口づけたいといったものだった。
 めちゃくちゃに自分のソレを押し付けて、抱きしめたい。抱きしめて欲しいといった欲求が心に次から次へと溢れ出て、止まらなくなりくるりと背を向けてそのまままた、玄関扉を開けて外に出た。
 屋外は寒かったが、それよりもこの妙な衝動に負けてしまいそうでそれが怖く、暫く事務所へ入ることができなかった。
 それからというもの、まるで砂で作った城が崩れるが如くどんどんと鳴戸に惹かれていった。元から惹かれてはいたがそういう惹かれるではなく、恋愛感情として惹かれていったのだ。
 どうにかして止めようと何度も思った。しかし、それは思っただけに終わり、話せば話すほど、会えば会うほどに惹かれている自分がいて、怖くなった。
 いつか、この関係を自分の手で壊してしまいそうで、得た信頼をつまらない恋愛感情なんかで台無しにしたくないとは思えど、心が止まってくれることは無くどころか恋心は加速するばかりで、何度、自宅で恋しいと涙したことか。
 褒められ、頭を優しく撫でられた日には自宅で酔っ払うほど酒を飲み、酔った勢いに任せて自慰をしたこともある。
 何かの弾みで抱きしめられた日は、腕の中の感触を思い出しながら長風呂して、のぼせたり。
 恋とはまったく以って不自由なもので、この感情さえ持たなければもっともっと、幸せになれたはずだと思えば思うほどに、鳴戸が恋しく思える。
 想いを否定すればするほどに恋しくなるとは一体、どういった感情が働いているのか、逆に認めてしまうと楽になる。
 このまま黙って鳴戸を見つめていて、そしてきっと時が経てばこの感情も色褪せていく。そう思うと楽にはなるが、苦しくなる。
 それでいいのかと、龍宝の心の中の誰かがそう言うのだ。このままでいいのか、想いを伝える気は無いのかと、誰かが叫ぶ。
 その叫びは日々大きくなっていって、ますます鳴戸が愛しいと思える。愛していたいと、思ってしまうのだ。
 結局のところ、否定しても肯定しても鳴戸が好きだという気持ちに変わりはなく日々は過ぎてゆく。龍宝を独り取り残して、何も知らない顔をして鳴戸と笑い合うそんな苦しい日々が過ぎる。
 一体、この感情に終わりはあるのだろうか。もし終わるとすればそれは、振られなければ終わらないのではないかと気づいたのは一体、好きだという感情を自覚してからどれくらい経った頃くらいだろうか。
 愛しい、恋しい、抱きしめたい、抱いて欲しい。キスしたいし、キスして欲しい。
 欲望は大きく育つばかりで、その感情が手に負えなくなったのも一体、いつからだろうか。気づけば、いつでも眼で追ってしまっていて慌てて逸らす。
 昼寝を誘ってもらえれば、寝顔をじっと見つめ股間を勃たせてみたり。果てない欲求は向かうところを知らず、ただ大きくなるばかりで龍宝をひたすらに追い詰めてくる。
 ただ、好きでいたいだけなのにそれすらも許してもらえない己の心は一体、どうなっているのだろう。
 愛していると一言、伝えたら鳴戸はなんと返すだろう。
 好きになってもらいたいと思えど、男の自分にそんなチャンスなど巡ってくるはずもなく、ただただ、毎日が積み重なってゆく。
 窒息してしまいそうだ。あまりに鳴戸が恋しくて、そして愛おしくて、想いに溺れてしまう。
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