コンパス

 こんな仕打ちを受ける謂れは無いと言ってやりたいが、なにせ口を塞がれている。せめてもの抵抗と思い、何とか身を捩って鳴戸の身体を押し返そうとするが上手くいかず、逆に抑え込まれてしまい、さらなる激しいキスを施され、腰砕けになる頃に漸く、唇が離れてゆく。
 そしてまた始まる、乱暴という名の愛撫。必死で逃げようとするが、ネクタイを引っ掴まれてそれも叶わない。
「や、ちょっ……おや、親分!」
 何とか乱暴を止めてもらいたく、叫ぶように呼ぶと心底に嫌悪を顔に表した鳴戸が顔を顰め、耳元で囁く。
「……くせえな。香水くせえ。フロ、行ってこい。いつものお前に戻ったら抱く」
「そんな一方的に……! 大体、親分が女を抱けと」
「黙ってろ。親分の言うことが聞けねえのか。あと、俺が怒ってることも忘れるな。……分かったら俺がキレる前にシャワー浴びて来い」
「親分……」
 どうしても動けずにいると、鳴戸の手がひらりと舞い痛くない程度にぱちんと頬を張られる。思わず張られた右頬に手を当てると、その上から鳴戸の手が重なりその顔には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「さっさと、行かねえか。本気で殴られたくなかったら、早くそのくせえにおいを落としてきな。分かったら、フロに行け」
 今までいろいろな人間に頬を張られてきたが、その中で一番優しくそして誰よりも痛い平手打ちだと思った。
 本気で、鳴戸は怒っている。
 逆にひどく叩いてくれるならそっちの方がずっと、慈悲があると思う。それほどまでに、今の平手打ちは激痛に感じた。
 ノロノロと起き上がり、肩を落としてバスルームへと向かう。
 ズタボロになったカッターシャツを身体から払い、かろうじて首に引っかかっていたネクタイも解き、スラックスも脱いで全裸になって頭からシャワーを浴びる。一体、風呂から上がったらどんな鳴戸が待っているのだろう。
 先ほど張られた右頬に手を当てる。目を瞑り、先ほどの鳴戸の表情を思い出してみる。何処か淋し気で、けれど怒気も纏っていて複雑な顔をしていた。
 何故、あのような読めない感情を浮かべてこちらを見ていたのだろう。香水のにおいがそんなに気に食わなかったのか。
 目を瞑り、シャワーを浴びているとふと、スリガラスの向こうでなにか音がしたと思ったら突然、全裸の鳴戸が浴室に乗り込んできて、驚く暇もなく真正面からがしっと抱き込まれる。
「お、おやぶんっ!? な、なんですか、いきなり入ってきて、離してください! はなっ……い、痛ッ!!」
 身を捩ったところで、それを咎めるように首の付け根に激痛が走る。初めはなにが起こったのか分からなかったが、耳元で荒い呼吸音が聞こえ、そこで漸く鳴戸が噛みついているのだと知った。
 かなり、あごに力を入れてきつく噛みつかれている。
「い、痛っ……おやぶん、親分! 痛いです、おやぶん!! っあ!!」
 今度は場所を変えて、隣辺りを噛まれあまりの痛みに両目をきつく瞑ってしまい、歯を食いしばる。
「うううっ……い、痛っ……! お、おや、おやぶんっ……!」
 戦慄く身体を叱咤して、鳴戸の背に手を当てると鳴戸の手は龍宝の後ろ髪を鷲掴み思い切り下に引かれ、喉が大きく晒される。
「ちっ……! 俺のモンにキスマークつけるなんざ、ふてえ女だぜ。上書きだ。塗り直す」
「おやっ……? おれの、もんって、それ……」
 今、聞き捨てならない言葉を聞いた。俺のモン、鳴戸はそう言った。一体どういう意味なのか。それを問う前に、疑似キスマークの上に鳴戸の唇が乗り、ぢゅうううっをきつく肌を吸われまるで皮膚が破れそうなその勢いと痛さに、龍宝は顔を顰めた。
「い、痛いです! 痛いです親分!! 止めてください!! は、離してっ、離してください親分!!」
「黙んな。自分のモンに手ぇ出されたんだぜ。それで黙ってちゃ男なんてやってらんねえんだよ。いいからテメエは黙って大人しくしてろ」
「おやぶんっ……!」
 三箇所、疑似キスマークをつけたのだがその一つ一つに長い時間をかけ、丁寧といえば言葉面はいいが、しつこくいつまでも吸われ続けそのたびに、歯を食いしばらなければならないほどの痛みが襲ってきて、龍宝を苦しめる。
 昔から殴り合いなどをして痛めつけられたことは多々あるが、今ほど痛みというものをひどく感じたことがない。それは、鳴戸から施されているということが多くを占めていることは分かっているが、龍宝は悲しいのだ。
 信じていた鳴戸に裏切られたと涙まで流して嘆いたその挙句、意味のない独占欲を見せつけられ、その上この仕打ち。
「お、おやぶん、もうっ……止めっ、止めてくださいっ……! くる、しいっ」
「苦しいか。俺も苦しいぜ。テメエの所為で、苦しくて仕方ねえ。裏切りやがって、どういうつもりだ」
「裏切る……? 最初に裏切ったのは親分、あなたでしょう!? 俺はただ、あなたが女を抱けというから抱いただけで、なにをそんなに」
「それが気に食わねえっつーんだ。お前はな、俺のだ。俺のモンだ。分かってんのか、それ」
「分かりませんね! 分かりたくもないっ……! 離してください。茶番は終わりです」
「……茶番?」
「茶番でしょう。こんなの、意味なんて無い。ただ、親分は自分のことを慕う子分が勝手なことをしたから怒っているだけで、本当の意味なんて空っぽで無いもどうぜっ……うあっ!!」
 言葉は途中で途切れた。

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