一人ぼっちのこの世界で
玄関先へ座り込み、暫く放心していたがこうしていても埒が明かない。ゆっくりと立ち上がり、着ていたスーツを順々に脱ぎ捨ててゆき、最後には全裸になってバスルームへと向かう。
頭から熱いシャワーを浴びると、少し頭の中がクリアになる。全身を泡塗れにして身を清めているとふと、内股にかすかな消えかかった鬱血痕が見えた。
これは最近抱かれた時、鳴戸によって付けられたものだ。そのくすんで靄のかかったような赤色に、心が錆びてゆくような気がした。
がりっとそこを指で引っ掻き、泡を落として浴室から出る。
涙も枯れ、感情の波が落ち着くとやってきたのは漠然な虚無感だった。大切にしていたものが急に居なくなってしまったその感覚が虚しく、そして悲しかった。
バスタオルで身体の水分を取り、下着とスラックスだけを穿き付け部屋を歩いてベッドの中へと潜り込む。
「……おやぶん、なぜ……」
横を向くと、目頭に涙が溜まる。すんっと鼻を啜り、龍宝は無理やり眠りの世界へと身を投げることにし、ぎゅっと目を瞑って意識が遠くなるのを待つのだった。
目を覚ましたのは夕方で、時計で時刻を確かめるとそろそろ夜と言ってもいい時間だった。随分長い間、眠り込んでしまっていたらしい。
ごそっと音を立てて仰向けに寝転び、天井を見上げる。
鳴戸が恋しい。
抱きしめて、名を呼んで欲しい。温かい口づけを交わしたい。抱き合って、熱を分け合いたい。
欲望ばかりが頭を占め、おかしくなりそうだ。
こんな形で居なくなってしまうのなら、最初からばかな真似などしなければよかったのだと思いたいが、鳴戸と過ごした時間をどうしても否定したくなくて、ベッドの中で頭を抱える。
「おやぶん、おやぶん、鳴戸親分っ……!」
何度も名を呼ぶが、それらはすべて空気に吸い込まれてゆき、すぐに静寂に満たされてしまう。
このままここにいたら、狂ってしまう。
勢いよくベッドから起き上がり玄関へ行き、先ほど本屋で購入した本を本棚に収める。
その足で冷蔵庫へ行き、ミネラルウォーターのペットボトルを開けて中身を半分ほど飲み干し、椅子の上にどかっと座る。
時計を見ると午後八時半を回ったところで、空きっ腹に酒は入れたくないが、新鮮組の息のかかったバーへ行くことにした。
鳴戸と鉢合わせすることになる可能性も捨て切れないが、少し目的ができたのだ。それには、女が必要になる。
バーという場所は龍宝にとってアウェーな空間でしかないが、致し方ないと身支度を整えに入る。
上手くいけば、鳴戸の腕の中に戻れる。一種の賭けのようなものだが、こうでもしないと取り返せないと踏んでのことだ。
離れて行ってしまうのがいやなら、奪ってしまうしかない。
横暴な考え方だが、それくらいしないと鳴戸は帰って来ない。自分の元へ、戻って来てはくれない。
卑怯なやり方だが、もはやそれくらいしか望みがない。黙っていたって、帰ってきてはくれないのだから行動あるのみだ。そして、絶対に取り戻す。
強い決意を胸に秘め、自宅を後にする龍宝だった。
店へは、タクシーを拾って向かうことにした。車を使ってもいいが、今は運転すら億劫に感じる。
通りへ出て、一台のタクシーを捕まえて乗り込み、店名を言い渡すと車がゆっくりと走り出した。眠らない夜の街の灯りが、窓の外に拡がっている。
いろいろなドラマが、この街の中で起こっているのだろう。特に、今から向かおうとしているバーのような店など特に、男も女も泣きを見たり愛し合ったり。
自分と鳴戸は一体、どうなのだろう。
今からしでかすことに対して、鳴戸はどのように受け止めるのだろうか。怖いような、けれど半分当てつけのようなものなので、悔しがってくれればそれはそれで留飲は下がる。決定的に、仲に亀裂は入るだろうが。
それでも、その障害を乗り越えて取り戻したいものも、中にはあるのだと知った龍宝だ。
きらわれたくないが、どうしても奪い返したいものがある。獰猛な考えだと知りつつも、今までこんな風にしか生きてこなかった龍宝にとっては、悲しいかなこのような方法しか考えが至らないのだ。
そんな自分が心底いやになるが、それでも。固い決意を胸に、タクシーに揺られるのだった。
店はいつもの店で、龍宝が顔を出すなり女たちが途端、色めき出す。しかも、今日は龍宝一人だけの訪問とあって女も眼の色を変えて席に座る龍宝の傍へ、何人もの女が寄り集まって酒を勧めてくる。
どの女も同じ顔に見える。そう思いながら、水割りをのどに流し込む。話は主に、女にさせておいた。特に龍宝から話を振ることもなく殆どが男がらみの話だったが、それはそれで勉強になると黙って聞いていたところだった。
この店たっての美人が他の女を押し退け、龍宝の隣に座ったのだ。
「なんだ、お前」
「なんだはないでしょう? 気に入った人が来れば、女は侍りたいものよ」
「まあ、分からんでもないがな」
空になったグラスをことんとテーブルに置くと、すぐさま女が水割りの準備を始める。そして前かがみになったところで鼻に掠ったにおいに思わずずいっと、女に近寄ってしまう。
「お前、いいかおりしてるな。なんつー香水だ?」
「え? なに、突然。香水の名前聞くなんて、無粋ですね」
「いいだろうが、気に入ったかおりを聞いて何が悪い」
聞いた香水の名は知ってはいたがにおいまでは知らなかったのだが、今日鳴戸からかおった香水のにおいは間違いなく、これだ。
「それ、今も持ってるか」
「ええ、持ってはいるけれど。え、龍宝さんが使うの? 女物の香水よ、これ」
「持ってるんなら俺にくれ。好きなかおりだ……」
そう言って、うっとりとした表情を見せ女の髪を一房取り、すうっとかおりを嗅ぐ。
すると、その場にいた女たちの顔が真っ赤に染まってしまい、どうやら全員龍宝の持つ色気に負けてしまったらしい。
慌てふためく者、見惚れてしまう者がいる中、さらに女のうなじに顔埋めるようにして長い髪を梳くと、女は勢いをつけて立ち上がり顔を紅潮させて「も、持ってくるわ。待っててください」と言って逃げて行ってしまう始末。
そして手渡された香水の瓶はそれは美しく、薄桃色の液体が特徴的な形の瓶に収まっており、一見してみると大きな宝石のようだ。作り手のこだわりが窺える。
これで、用は済んだ。
あとはこれを使い、上手いこと事が運べば鳴戸の腕の中はまた、龍宝だけのものになる。
こそりとほくそ笑みもはや用無しとばかりに、さっさと店を後にする龍宝だった。