午前1時過ぎ、わたしは必死に自転車を漕いでいた。ペダルに足を掛けて何度も何度も回して息も絶え絶えである。冷え性だからと厚手のパーカーに着込んだ保温のインナーが今は裏目に出てじんわりと汗を吸い取って、背中とお腹にぺったりとくっ付くのが不愉快でたまらないし、燃える様に熱いくせにそこから熱が奪われて芯から冷えていくのも不愉快。最悪な悪循環だ。
そろそろ休憩したい、そう思ったとき、閑散とした道路に青と赤がちかちか点滅したのを見計らって減速すると背後からにゅっと伸びた長い腕がわたしの腹に巻き付いて、自転車が少しだけ揺れた。
「なぁー、なまえちゃん、ペース遅くね? もっといけんだろ」
「っふざ……、はぁ、そんなこと言うなら現役バリバリに不良やってる先輩の方が体力あるんだから、代わってくださいよッ!」
付き合ってもないのに距離感の可笑しい先輩は、緩やかにぎゅうぎゅうと回した腕に力を込めて甘えるようにわたしの肩口に頭を擦り付けている。
あれ、なんかこれ前もあったような、とわりと多い先輩との思い出の引き出しを探っていると、信号が赤に変わりゆっくりブレーキをかけて車輪を止める。結局目当ての記憶は諦めて、回された腕をそのままに先輩に全体重を乗せて凭れかかる。あー、ちょっと楽。
「先輩背もたれの才能ありますよ。ちょっと硬いけど」
「んあ? なに、甘えて―の?」
「思考回路イかれてますよ。それと甘えてんのは先輩じゃないですか」
「しゅーじ先輩でいいぜ〜。なまえちゃんは特別、許してやるよ」
「はぁ、先輩」
「しゅーじ」
「…せんぱい」
「呼ばねーとなまえちゃんのねぇチチもっと平たくすんぞ、おら」
「……嫌いになりそう」
青になった信号を確認した瞬間姿勢を整えて先輩の腕を持ち上げてぶんっと引き剥がした。そしてお尻をサドルから上げて鬱憤を込めて助走を付けると、段差のある所に降りた。
後輪がカシャン!と音を立てたのと同時に低く「イテッ」と聞こえて心の中でガッツポーズをする。先輩のお尻かわいそー。勿論一ミリも思っていないが。先輩のケツの心配などしてやる義理もくそもないのでそのままペダルを漕ぐ。
「お前昼にオレが助けてやったの忘れたん? ひでーことするじゃん」
「先輩がクソみたいなセクハラするからですよ。やーいセクハラ暴力男め」
「何とでも言えよ、痛くも痒くもねーから」
「まじでクソ」
「わぁ、なまえちゃん意外と口わりーよな」
先輩は言いながらへらへらと笑う。その振動で自転車が揺れて、体幹のないわたしは転けてしまわないかと冷や冷やしているというのに、そんなのお構いなしといった感じに体を揺らしている。
信号待ちで休憩できたとは言え1時間以上も必死こいてぱんぱんに張った両脚を無理やり動かしているというのに、どうしてこうも呑気なんだろう。少しくらい代わってくれてたっていいのに。また腹が立ってきて段差を探したけど自転車が可哀想なのでやめた。
「なぁ」
「なんですか」
「...首、怒ってねぇの?」
そう言って、先輩の長い指がぬるりと項をなぞるように撫でる。
あの時とは違う、優しい手付きだ。
かさかさと乾いた風が草木を揺らして、心穏やかになるBGMをあっという間に先輩は掻き消してしまった。
“首、怒ってねぇの?”
きっと、昼間の事を言っているんだろう。無意識にハンドルを握る手に力が入った。先輩に向けられた殺気が、ありありと蘇るからだ。
わたしはしばしの間逡巡して、強張り始めた身体を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「どうしてあんな事したんですか?」
心が粟立って、冷えた腹や背に再び汗が滲む。思っていた返事が返って来なかったとき、わたしはどうすればいいんだろう。ぞわぞわ揺れる脳みその隙間で、もしもの時どうやって先輩から逃げようか、その算段を考えている。
「あー……無意識?」
「む、…無意識でわたしを殺そうとしないでくださいよ...」
「オレが、なまえちゃんを殺すわけねーじゃん。なまえちゃんが死んだらオレも死ぬよーになってんのに」
「変なシステム作んないでくださいよ」
「あー。でも、なまえちゃんすげぇいい顔するからさ、マジで危なかったわ」
先輩があっけらかんと言うから、恐怖とあれ、なんかいつもの先輩だなという感情が波を作ってわたしを呑み込んでいく。
わたしが死んだら死ぬって、かなり危険な匂いしかしないけど。
このときわたしは何故だか、友達の彼氏が「オレのこと振ったらお前の目の前で動脈掻っ切って死んでやる」と泣き喚いていたを思い出して、先輩はそういう感じの予備軍なのかなと未来の恋人に合掌した。それに合わせたかのように自転車からキュルキュルと異音がして、穏やかに「帰ったら油差してやるよ」と言われてさっきまでの会話と昼間の出来事が浮かんで温度差に火傷しそうだなと思った。
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退屈な授業を終えて何時もと同じルートでのんびり帰路につく途中で、足元に落ちていた空き缶を爪先で蹴り上げてしまった。
かこんと小気味良い音と共に空一面を覆い尽くすうろこ雲のど真ん中に、赤色の空き缶が舞って弧を描くように茶色の液体を撒き散らしながら、運悪く前方に居た不良集団の中の1人の頭にクリーンヒットしてしまいあっという間に囲まれてしまった。
「何だテメェ、オレの連れに何してくれてんだアァ?」
「っ、ぐぇッ」
その不良集団の中で一番体躯の良い茶髪モヒカンの男が肩で風を切りながら、蟹股気味に大きな歩幅でわたしの前に立つと、突然ネクタイを捻じり上げた。そのせいで爪先立ちになった脚がぷるぷる震えている。
男は爪先から髪の先までねっちょりと舐め回す様にわたしを見て、グッと捻り上げたネクタイを引く。わたしは目と鼻の先程の距離になった男の細くてシジミの様な双眸を無言で見つめ返してやった。
この16年という人生の中でこういった事とは無縁だったわたしは(一人を除いて)正直不良を舐め腐っていたのだ。流石に女には手を上げないだろうと。
「テメェ生意気だな、誰にメンチ切ってんだゴラァ?!」
「ッメンチ…? 見詰めただけですが…」
「あ、アァ?! このクソアマ馬鹿にしやがって!!」
裏返った声が滑稽で、情けなく足元に滑り落ちる。完全に間違えた、返す言葉を、間違えた。
わたしの中の不良は半間先輩が基準、というか不良なんて半間先輩しか知らないし、あの人が喧嘩しているのを実際見た事もないが、学校内で相当な噂になっているから強いんだろう。その強い先輩が、今みたいに見詰め返すと嬉しそうに「なまえちゃん活きがいいな〜」と喜ぶので他の不良にも通用すると思ったのだが完全にしくじった。あれは先輩にしか通じないのだと今更気付いたところで後の祭りだ。
目の前にはやはり、こめかみに青筋を浮かべた男がいて、白くなるほど握り締めた拳が風を切って振り上がった。その一連の動作が全てスローモーションに見えるのに、わたしの身体は石のように硬直して、動かない。
あぁ、これは殴られるなと悟った、刹那、背後から「あれ、ちびちゃん何してンの?」と間延びした声が聞こえてわたしは無意識に「半間先輩?」と目玉だけをぎょろりと動かしてその声の主を探す。すると男の後ろで、モーゼの十戒の如く割れた不良集団の人垣からにょきっといっとう目立つ半間先輩が所々汚れている白い特攻服のポケットに両手を突っ込んで、無表情にわたしを見ていた。
男はというと、半間先輩の姿を凝視して拳を振り上げた状態で固まって小さく「か、歌舞伎町の死神だ……」と呟いた。が、気の所為だろう。死神なんてダサすぎる渾名、本当なら笑ってしまう。え……本当なの……?
「わぁお、ちびちゃん喧嘩するん? 弱そ〜」
「する訳ないじゃないですかぁ...。笑ってないで助けてくださいよ」
「あ? だりぃ〜。何でもするっつーんなら助けてやってもいいケド」
「それは絶対嫌」
「ふ〜ん? でもこンままだとボコられて回されちまうかもよ」
まわ、まわされ、る? 最近の不良ってそこまでするの? もやは町のチンピラと変わりないじゃないか。先輩のあまりも恐ろしい発言に事態の深刻さを理解したわたしは、身体の内から冷えていくのを感じて、身震いした。先輩の言う通りになったとして、なったとしてだ。この男は、不良集団はわたしを散々凌辱した後は、どうするんだろうか。用が済んだからと帰してくれるだろうか、否、それはあり得ない。
「てっめぇ! 俺を無視してペちゃくちゃ喋ってんじゃねぇぞ!!」
頭の中で反芻する先輩の言葉に気を取られていたら、急に怒鳴り出した男が振り上げていた拳を下ろして、頬に鋭い衝撃と、鈍い音、それから、じんわりと広がる鉄の味。
視界がぐらりと回転して、気付いた時には地面に転がっていた。
殴られたんだと認識するより先に咄嗟に手で頭を庇っていた。僅かに赤く腫れた拳を目で追っていると、血走った瞳でわたしを見下ろす男が四股をだらしなくアスファルトに投げ出したわたしに跨がろうとした瞬間、さっきまでつまらなそうにただ突っ立っているだけの先輩が長い脚を伸ばして、男の鳩尾を抉る様にして蹴りをいれた。
悲鳴のような鳴き声のような、何物にも例えようのない声を上げて、数秒前のわたしみたいに地面に転がったその人に先輩は続けざまに蹴りを飛ばす。
「いっこ貸しな、なまえちゃん」
一度もわたしを見ないまま言葉を放った先輩のその目は、真っ黒で底の見えない、不気味な殺気を放って、壊れた人形のようにただ殴り続けている。
「ぁ、は、い」
「24時に△△にある□□っつーラブホの前に来いよ」
「ッえ? は、はい……」
ラブホテル……? からからと張り付く喉から無理やり捻り出したせいで上擦った声が、骨と肉のぶつかり合う音で掻き消される。男に馬乗りになって打擲する先輩の拳は皮が捲れて、肉が見えているのにいつまでもいつまでも動いている。そのうち男は白目を剥いて小さく、唸り声を上げ、ぴくぴくと小刻みに痙攣しだした。わたしは怖くなって上半身だけを起こして、せんぱい、と無意識に呼んでいた。
「なに」
意外にもわたしの声に反応してくれた先輩が、視線だけを寄越してあの真っ暗で底の見えない、殺気で満ちた瞳のまま言う。わたしの知る先輩ではない、他の誰かのような、人。初めて見る喧嘩は喧嘩では済まされない事になりそうでただ怖くて、うわ言のようにせんぱい、と呼んでいる。
「なに、オレ先輩だけど」
先輩は痺れを切らしたように溜息をついて、気怠げにわたしを見下ろして殴るのをやめた。それに少しだけ安堵して、無理やり溜めた唾液を飲み込んで、震える唇を抉じ開けた。
「し、んじゃう、それ以上は、駄目」
「ダメじゃねーだろ」
「そんな人殺しちゃ駄目です」
「あァ? なまえちゃんオレに指図すんの? 弱えーくせに?」
先輩の生気のない瞳がぎょろりとわたしを睨め付けて、その長い腕が緩慢な動きでわたしの首元まで伸びてきて、爪先でそっと撫でる。上手に息ができない。このまま首を絞められる? どうすればいい、どうしたら、今すぐこの場から逃げたいと思うのに、全身の筋肉が硬直して言うことを聞かない。
さっきまでつぅっと首筋を撫でていた爪先に僅かに力が入ってじわじわと喉仏に食い込んだのを感じて、ひゅっと漏れた息と一緒に希望を込め喉奥からせんぱい、と再び掻き出した。
「っわたし、せんぱいの事嫌いじゃないです。別に先輩に会えなくても困らないけど会えなくなると寂しいから、お願いです。その人を、わたしを殺さないでください。人殺しなんて、しないでください」
恐怖に乗っ取られた思考はぐちゃぐちゃなまま、纏まらないまま言葉として発信されてしまって言わなくてもいいような事まで飛び出てしまった。これはもう殺される。先輩の短い爪が喉仏を貫いて、それから、それから……? 思考がぐるぐる回る中、絶望しているわたしとは裏腹に先輩は片手で口元を隠して、くつくつと肩を震わせる。それから満足気な表情でわたしを見下ろすと、伸ばしていた手を引っ込めてのっそり立ち上がった。
「……ばはっ♥ 可愛くねー。こんな時くらいしゅーじセンパイ好きだから殺さないで♥ って言えねーの? ウケんなお前」
言いながら先輩はぴくりとも動かない男の顔の前に蹲み込むと、人差し指と中指を口角に掛けて口を開かせ、もう片方の手を突っ込んだかと思うと聞いた事もないめりめりっという音を立てて黄ばんだそれを数本抜いて掌に包んだ。あれは、歯だ。間違いなく、抜きたての、歯。
それを握ったまま反対の手で未だ地面に座っているわたしの手を引いて立ち上がらせ、そのまま一本一本指先を開かせ小粒の何かを握らせる。何か、というか歯、しかないけど。
「ぁう、せ、先輩、何して」
「お前にプレゼント♥ ゆうじょーの証? てきな。折角だしアイの証にしとくか?」
「は、はぁ、歯を……どうも……。あとどっちでもいいです…」
自分で言ったくせにさして興味もなさそうにふーんと流した先輩は、ゆっくり血だらけの手を伸ばして、わたしの頬を撫でた。ガラス細工にでも触れるような手付きで、そっと指の腹で撫でてくる。その瞬間、思い出したようにじくじくと熱をもって頬が痛みだした。
わたしより随分低い体温が溶け合うように温まって同じ温度になっていくのが心地良くて、それと同時に気恥ずかしくて居た堪れずに視線を逸らす。
「……だりぃ。やっぱ殺しとくか」
独りごちるような小さな声にハッとして、先輩の静脈が見えるほどに細い手を掴んだ。
「なまえちゃん傷物にした責任とらせよーか?」
「大袈裟ですよ。先輩の方が痛そうですよ。大丈夫なんですか?」
「オレはへーき。じゃあ歯全部折る?」
「なにがじゃあなんですか??」
「まあいいや。なまえちゃん見て。お揃い」
先輩は反対側の拳を開いてわたしに握らせたのと同じ本数の歯を見せると、三日月のような笑みを浮かべた。先ほどまでばかすこ人を殴っていたとは思えない、子供宛らの屈託の無い瞳だ。やっている事がエグいので可愛さなんて微塵もなく、そのギャップで背筋が凍る。
「うわあ〜、本当だぁ。いつもそんなことしてるんですか?」
人の歯なんかどうするんだろう。どこぞの吉良なんたらさんは自分の爪を切って集めてたっけな。先輩にもそういう癖があるんだろうか。
ちょっとした疑問が浮かんで問うと、歯を指先で摘まんで空に掲げて見ていた先輩が、こんなことってなに?とでも言いたげな表情で小首を傾げた。
「歯です。戦利品? として抜いてるんですか?」
「まぁ、たまに?」
「どうするんですか? というか、これ貰ってどうすればいいですか?」
「あ〜〜、もっと抜いてネックレスとか作ったほうがいい?」
「なんにも良くないですよ」
「まーさ、オレらの思い出の一部になンだから大切にしろよな、それ」
会話のキャッチボールが面倒になったのか、急に雑に返されて渋々先輩とお揃い(笑)の歯をポケットへ仕舞い込んだ。そしていつの間にか、うじゃうじゃいた周りの不良どもは地べたに転がるこの男を除いて綺麗サッパリ居なくなっていた。
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