「──、」
「……ん」
洩れる吐息は寝息のそれ。思わず音にしかけた名を喉奥に飲み込んで周囲をうかがうとカーテンから覗く光はまだ無いことが感覚で分かる。向かい側にあるだろう別の感触はおそらく江戸川の足先のはず。さすがに灰原は寝室に戻っているようでリビング兼ダイニングのそこに居るのは江戸川と降谷さんとそれから俺の三人、微かに視界に入るテーブルの上はある程度片付いていることから考えて宅飲み後の寝落ちらしいことは推測できた。
視界に映る褐色は降谷さんの胸元、と正確には襟口から覗く首元から鎖骨にかけて。黒地のVネックニットの腕は軽く捲り上げられているのか肘から先が見えている。年齢の割りに綺麗についた筋肉が目立つ前腕部分は現状俺の肩口へと流されているようで視界に入るのは降谷さんの整ったかんばせと、ニット地に覆われた上腕二頭筋。徐々に覚醒に近付く意識が壁にかかった時計の針の先を読む。蛍光塗料が塗られた短針が指す数字は三の手前だ。
「起きてますよね、降谷さん」
「……半分は寝かけているよ」
俺が目覚めてから数分、幾らか身動いでうまいこと整えられた体勢はほぼ確実に降谷さんの抱き枕代わり。呼気のタイミングが一瞬乱れてすぐ戻ったことを考えるとおそらく降谷さんも俺と大差なく目覚めたらしいことが想像できた。
「彼を起こさないように、……少し出るかい?」
「……起きても狸寝入りするようなタイプですよ江戸川は」
「……ふ、それは言えている」
互いの呼吸が触れる距離での会話は神経を使う。もちろん江戸川を起こさないようにという配慮も含めてだから依然降谷さんの目蓋は伏せられているし、視線がかみ合うことはない。普段よりもかなり近い位置での会話は思っていた以上に相手の体温を感じられることもあって自然と心拍数は上がる。対して降谷さんはと言えば我関せずとばかりに変わらず俺と視線を交わすことなく静かな一定の声音で言葉を続けていくだけだった。
「近くないですか?」
「意外と初かい?」
「まさか」
軽口の応酬は心地がいい。そこに真実が絡む会話も嫌いではないが、あからさまに軽口だと分かるそれを楽しめる年齢になったのだとつい昔のことを思い返しては思わず笑いが洩れる。軽口の延長にある距離感のバグに関しては見てみぬフリをしつつ降谷さんの腕が退く気配はなく、抱き竦められたままの体勢は普段の距離とは程遠く、されどそれに対する居心地の悪さは存在しないのだから不思議だ。とくとくとく。触れ合う身体からは互いの、一定リズムを刻む心音が聞こえてきて。起きた直後から僅かに速い速度で刻む俺のそれと、降谷さんのそれが重なることは即ちそういうことなのだと解釈しておこう。
「降谷さんこそ意外と初ですか?」
「……あぁ、君の鼓動に釣られただけだよ」
「大人ってそういうことさらっと言えちゃうの凄いですよね。俺やっぱり初なのかもしれません」
「はは、初というほどの年齢でもないだろう?僕からしてみたら随分と年若いけれど」
「年齢不詳ですけどね、降谷さん」
「……君よりは大人だよ僕は」
「知ってます」
二人でどうにか炬燵から抜け出した午前二時四十分。深夜はまだ色濃い。マンションの階下、エントランスから漏れる灯りを頼りに酔い醒まし兼夜の散歩と洒落込みながらの言葉の応酬は先の通り軽口の続きだった。
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