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十七歳からずっと死に損なったまま

気付いた時にはすでに存在していたあのひとの素性を自分は特別探ろうともしていないし、それを知り得ない自身に対してなにか憤りを感じることはなかった。もとより感情の起伏が平坦だと言われることが多く、それでいて己の表情筋は他者より発達している気もしなかったし、それを改善させるつもりもなく、結果的に『穏やか』と表現されることが必然的に多くなった、ただそれだけ。江戸川の付近でよく見かけるあのひとは此方からの視線に敏いらしく、いつも必ずどこかで視線がかち合う、そんなひとだ。俺の視線に気を悪くしたといった反応ではなく、ただ淡々と。生真面目に合わされる、その真っ直ぐな瞳にいつからか魅せられていた、本当にただそれだけのはなし。


「安室さん?」
「あぁ、里見君か。こんにちは……でもないな、こんばんは。今日はもう上がりかい?」

時間は夕方六時少し前。夏の色は消えかけの、すっかり日が落ちるのが早くなった十月初旬は秋を通り越して冬が来たのかと思うほどには朝晩の寒暖差が激しくて、かと思えば日によっては未だ夏の気配を残していたりするから厄介だ。今日は前者らしく、朝方家を出る前に引っ掛けてきたジャケットは着込んだまま、それでもなお薄ら寒さを感じるのだから秋は一体どこに行ったのだろうと不思議に思う。街のネオンに照らされる夜空は時間が経つに連れて明度を下げる。真っ暗に。そんな移ろいを眺めるのは嫌いではなかったし、思いの外早くに済んだ仕事をキャビネットに放ってパソコンを閉じたのが今から十五分程前。同僚との軽い世間話のあとに社屋を出たその先で視界に入るそのひとの名は知る限りでは二つあるらしい。

「――さん、自分はここで」
「分かった。僕も明日は昼過ぎに登庁の予定だからそれまでに何か状況が動いた場合は連絡を頼んだぞ」
「分かりました、では」

部下らしき人と言葉を交わす降谷さんからは軽く視線を外しておく。思わず出てしまった名は以前から江戸川と灰原の間で交わされる会話で知ったそれだったから、なんとなく気まずさを覚えること数秒。故に外した視線の、ほんの少しの隙間では降谷さんが部下の背中を見送る姿がちらついていた。思わず口に出た俺の言葉に対して降谷さんの顔と俺の顔、それから首にかけたままだったネームホルダーを交互に見比べた後に軽く会釈をして去っていった部下らしきひともこの近辺で何度か見かけたことがあったからおそらくそっち関係なんだろう。そっちってなんだ。江戸川から詳細を聞くことはこれまでもなかったし、この先もないだろうことを頭の片隅で考えつつもいつの間にか並んでいた靴から視線を上げて、その先にかち合うだろう降谷さんの瞳を見返した。


「彼は降谷零さん、俺の昔からの知人」

江戸川と灰原の部屋を訪ねたあの日、玄関口で炬燵を出したばかりなのだと言われてお邪魔したその先で合間見たそのひとが『例の安室さん』なのだと知ったのはいつだったか。確か何かの拍子だったと思
う。コンビニの缶チューハイを片手に残業帰りに寄った江戸川宅での出来事だったかもしれないし、ゼミの帰り道に世間話程度に出た話の先でのことだったかもしれない。何方にせよ初めて『安室さん』の名を聞いたときからすでに干支は一周以上は周っていたはずだし、己の記憶力のレベルはたかが知れていたから頭で浮かんだ疑問は掘り下げず、ただこのひとは『降谷さん』であり『安室さん』なのだという認識だけがいつまでも残り続けている、ただそれだけなのだと思う。
俺はそのひとを江戸川に紹介された通り『降谷さん』と呼んでいたし、降谷さんも俺のことは名字に君付けで呼ぶことが大半だったから本当に思わず出てしまった名前に俺自身もとても驚いたのだと、それを伝えれば降谷さんは詳細こそ語らないものの俺よりも遥かに年上らしい話の流し方でごく自然と自分には二つの名があることを認めたのは今日が初めてだったからそれにも驚いた。そんな俺に降谷さんも江戸川たちの部屋で見せるようなほんの僅かに、あどけない表情を返してみせるのだから「あぁこのひとはずるい人だ」と何度か覚えがある感想を抱えつつ歩みを止めない足先は当たり前のようにいつもの場所へと向かっていった。


「遅くに悪い、降谷さんと会ったから思わず」
「……貴方ねぇ、来るなら連絡を入れてって言ってるでしょう。たまにはしっかり出迎えさせてくれても良いんじゃない?」
「すみません哀さん、直ぐにお暇しますから」
「貴方も。そういう意味で言っているわけじゃないのを知った上で口に出すんだから、流石江戸川君と仲が良いだけあるわよね」
「それは言えてる」

自分と降谷さんの関係は曖昧だ。顔見知り、知人、友人の友人。けれども確かに互いを個として認識しているし職場でたまたま一緒になった時はこうしてアポ無しで江戸川と灰原の元を訪ねたりもする不思議な関係と言ってしまえばそれも間違いではない。連絡先は知らないし、知ろうとしたこともなかった。ただこうして、ふと顔を合わせたその先に重なる時間の心地よさだけは確かに実感していたことも事実だった。