- ナノ -

はじける泡に溺れたい

たまたま目についたその人の素性を知る由もなく。ただただ、視界の端に映ったその人を目で追うようになったのはどのくらいの時間が経っていたか。

「あ、またあのひと」

ひとり洩れた声は周囲の音に消されていると願えば俺の耳には届かない。決まった時間、決めた席、いつの間にか決まっていたメニュー。いつからか使わなくなった砂糖とミルクはトレーに置かれることがなくなって、ただただ苦味の強いコーヒーを片手に、もう片手は指先がタブレットの表面をなぞるだけ。退屈な毎日と、決まりきった定時連絡と、決まりきった仕事内容。少しだけ汚れが見える窓ガラス越し、通りに面したカウンター席から眺める景色の端にはいつものあの人。少しだけ気怠げに歩いている姿、そしていつも同じ店から出てくる。その人を眺めてから席を立つルーティンは意識せずとも身体に染み付いていて、名前も何も知らないその人を眺めるのが昼休みの日常となった。

「   」

その人を見なくなってしばらく。いつもの店、いつもの時間、いつもの席、いつものメニュー。冷めきったコーヒーと主役が消えてくしゃりと丸めた包装紙が音を立てた、気がした。
何を話しているかなんて聞こえるわけもなく。だけど暫く見なくなっていたあの人が、彼よりも少し背の低い、外見からして高校生とも見れる年齢の子と言葉を交わしているらしい。いつも見ていた表情よりも、僅かに覇気のあるそれ。気怠げな雰囲気の名残はその子といる時よりも、また別の日に見かけた全身黒尽くめの男と相対している時のほうが残っていた。

その人の素性は全く分からない。けれど姿を見かけなくなってから今日まで、何かしらがあって、いまのあの人と成ったらしい。以前よりも生気があるその人を見て決める、と同時にトレーを手に席を立つ。いつもより少し過ぎた時間は気にせずに、ただただ浮かんだ考えをひとり言葉にして店を出た。


転職しよう。


20210410
(Title by Garnet)