- ナノ -

渋谷の喧騒をナイフで切り分けて

「あ」

思わず漏れた声は渋谷特有の喧騒に消えていく。もう随分と慣れ親しんだそれが、ほんの少し前までは非日常的な荒れ切った風景だったのだから都市開発とやらがとんでもないことはその辺りに明るくない俺でも流石に実感はできるわけで。
あの日を境に突如リモートワークが導入されて早二年、インフルエンザともまた異なる流行病はいまだ収まる気配は見えないものの今はもうすっかりマスクが日常生活の一部となっていることを考えればひとが新しい環境に適応することはそれなりに早いのだと身を持って体感している今日このごろ。久々の本社出勤とともに視界の端に写った姿を一度は視線が素通りして、それから振り返った先にいる姿に独り言は増すばかり。

「あの黒い人もこの近くが職場なのか」

偶然も偶然。ほぼ片手指ほど前にあの人と一緒にいるのを見かけた黒尽くめの長身が視界に入り、漏れた声には行き交う何人かが俺を振り返って通過していくのだからやっぱりここがスクランブル交差点ではなくて良かったと実感する。
転職のきっかけとなったあの人はそれこそ三年前のハロウィンきり見かけることはなかったから、むしろあの人よりも確実に少ない回数しか見たことのない黒尽くめのその人を覚えている事自体、自身の記憶力に拍手を送りたいくらいだと思う。そんなことをぼんやりと考えながらも妙に目立つ黒尽くめを視線で追いかければ不意に視線がかち合った。サングラス越しの視線ではあるもののばっちりしっかりとかち合った視線に若干の気まずさを覚えながら視線を自然と流す。あぁそういえば。あれだけ目で追っていたあの人とはついぞ視線が絡むことはなかったなぁと思い返す、そんなある日の平日。


20211031〆
(Title by Garnet)