marriage ring
出動の前に必ず銀色に輝く左手の薬指にキスをする彼は、とても神聖なものに見えた。しかし彼がその指輪に囁く言葉は「愛してる」でも「好き」でもない。
「行ってきます。」
必ず帰ると約束するその言葉は、今は亡き相手に捧げるべき言葉ではないだろう。あなたは誰に帰ると言うのか。
結局のところ、彼は亡き亡霊に囚われたままなのだ。
誰よりも前向きで、後ろ向きなことを嫌うくせに、誰よりも過去に囚われていて、誰よりも過去を大事にしている。過去に死別したという彼の妻の話を誰にもしないのは、きっと彼が過去を自分のものだけにしたいのだ。他人の過去は晒け出させておいて、自分の過去はそっと蓋をする。彼はそんなずるい人だ。
「あなたはずるい。」
僕がそう言うと、彼は困ったように笑って僕の頭を抱き寄せた。規則的な心臓の音が聴こえ、この人が此処に居ることを証明する。この人は此処に居て、今は僕のもの。けれどこの人の心は此処にはない。この人は求めるままに与えてくれるけれど、全ては与えてくれない。心だけは与えてくれない。
「お前には全部やる。」
そうやって囚われた心だけはくれないまま、僕に優しい嘘を吐くのだ。
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