廊下にある鏡で全身をチェック。黒い髪は寝癖が無く真っ直ぐ、生活指導の先生に注意されない程度のナチュラルメイク、制服にシワや汚れは無し。よし大丈夫。
 化学準備室へと向かう私の足取りは実に軽やか。空だって飛べそうです、うふっ。いつもこの道程は足取り軽いけれど、今日は一段と軽いのです。あっという間に辿り着くと、滑りの悪い扉に手を掛けた。

「せーんせー!」

 私の声に反応し、ぼさぼさとした黒髪の頭が振り返る。分厚い眼鏡の奥の眠そうな目が私を捉えた。

「おー、合格オメデトウ、九条」

 ぱちぱちと骨ばった手が拍手する。この先生の拍手は今、私だけの物。あ、マズイ。そう思うとニヤケが止まりません、えへへ。大学合格よりも嬉しいです、えへへ。

「えへへへ、全部先生のお陰です」

 締りの無い顔で先生を見上げると、少し細い目を更に細めていた。先生、先生。その顔は反則ですよ! 私の心臓が破裂しちゃいます。もしそうなったら先生、殺人罪で捕まっちゃうなあ。それは嫌だ、頑張れ私の心臓。

「お前、頑張ったもんな。他の先生も言ってたぞ、九条の頑張りを他の生徒も見習って欲しいって」

 先生が近付いてきて、私の! 頭を! 撫でた!! 頭がぐしゃぐしゃになるなんて気にしない。そしてもう限界ですマイハート。先生の染みが付いた白衣をじっと見て、私は一生懸命違うことを考えようとした。腱鞘炎になるくらい書いた小論文、先生方が根を上げるまでやり続けた面接練習。そんな辛かった日々を思い出すのだけれど、あっと言う間に霞んで頭を撫でる手に意識が行ってしまう。もう駄目だ、と思ったと同時に手が離れていく。

「よし、今日は俺がコーヒーを淹れよう」

 いつもは私が淹れるのだけれど、今日は先生が淹れてくれるらしい。まあ、インスタントなのですが。それでも先生が淹れてくれるコーヒーは世界で最も特別です。直ぐに先生自身のティーカップと、無理やりこの部屋に置いた私専用のティーカップがテーブルに仲良く並んだ。私はカップを手にすると、先生のカップにこつんとぶつけた。

「なんだ、乾杯か?」
「まあ、そんなところです」

 嘘です。ちゅーのつもりです。幾ら先生の事が好きでも、してはいけないのは分かっています。だから代わりに、なんて、私らしくないことをしてみました。はい。

 嗚呼、先生好き好き大好き。コーヒーに入れたミルクみたいに、そればかりが頭の中でぐるぐる回る。ちらと盗み見れば、切れ長の目を伏せて熱そうにコーヒーを飲む先生。猫舌ですものね。三年間通い続けていましたから、当然知っていますとも。姿勢が悪いけれど意外と背が高いとか、猛禽類が好きとか。それから考え事をする時は人差し指を下唇に当てる癖があること、くしゃっとした笑顔が可愛いこと。他にもたくさんの事を、この狭い化学準備室で全部知った。でも、もうそろそろここに通えなくなる。そうしたら先生、私のこと忘れてしまうかもしれない。この際だから、本当にキスしちゃって一生私のこと忘れられなくしてしまおうか。なんて、物騒なことを考えてしまう。卒業までまだ時間はあるから、そんなことしないけど。物騒なこと考えず、今は皆より一足先に、受験のストレスから開放されたことを喜ぼう。
 コーヒーを啜っていると、先生が白衣のポケットから何かを取り出した。

「九条、これやるよ」

 先生から渡された物は、同心円模様が美しい小さな石だった。孔雀緑の表面は丁寧に磨かれていてつるりとしている。

「先生、これもしかして孔雀石?」
「ああ、魔除けになるらしい。受験終わったーって気が抜けて、変なもん入ってきたら困るだろ」

 先生はおどけたように、合格祝いだと笑った。
 きっと先生は孔雀石を、古代エジプトの人がアイメイクに使ったとか、日本画に使う顔料くらいにしか思っていませんよね。ねえ、先生。先生は知らないと思うけれど、孔雀石の石言葉は、“危険な愛情”なんですよ。

「先生、有難う。私、この石を先生だと思って大切にします」

 私は手の中に納まる孔雀石に口付け、ぎゅう、と握り締める。珍しく動揺している先生が視界の端に揺れ、私の心は天より高く舞い上がったのです。


 高校を卒業した今、私はあの頃と変わらずに先生の隣でコーヒー飲んでいます。

「先生、好き好き大好き愛してる!」
「はいはい、分かった分かった」

 孔雀石の石言葉に“恋の成就”もあることを知ったのは、つい最近のお話。



end

とある曲からイメージ(とは言え、だいぶ離れてしまいましたが)。
石言葉は繁栄、再会等々、結構あるみたいです。






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