ぽろん、とピアノの鍵盤を弾く音が響いた。

 私は思わずはたと立ち止まる。ちょっと待って、音楽室って誰もいないのじゃあなかったかしら。掌に収まっている鍵を恐る恐る確かめると、黄色いプラスチックのプレートに音楽室と書かれたラベルが貼ってある。間違いない、鍵は私が持っている。

 ぽろん、ぽろんとまるで確かめるように鳴っていた音が、ぴたりと止まった。

 ごくり。
 私の唾を嚥下する音が、静かな廊下に響いたのではないかと思ってしまう。
 この旧校舎には音楽室の他に、同好会の使う空き教室くらいしかない。窓の外はとうに陽が落ちて真っ暗、外の運動部の声も疎らだ。文化祭が終わった今の時期に、旧校舎を使う同好会が残っているとは考えにくい。それ以前に私が音楽室の鍵を閉めた、筈。三年生が引退し、二年生が修学旅行に出ている今、吹奏楽部部長代理として任された身として確かめなければ。決意を固めると一歩踏み出す。

 けたたましい程の、音が鳴る。
 曲名は分からないが、ピアノについては素人の私でも難しい曲だと分かる。激しくもどこか悲壮感を漂わせる旋律に息が詰まりそうだ。
 いつの間にか落としていた鍵を拾い、音楽室へと走る。音楽室の扉の前に辿り着けば、先程よりも激しい音の波が私を襲った。これはピアノを叩き壊すつもりで弾いているのではないか。そう思わずにはいられない。けれど負ける訳にはいくものかと扉に手を掛ける。鍵が掛かっていないのを確認し、勢いよく開いた。

 手元が狂ったのだろう濁った音が鳴って、ぴたりと止まった。ピアノの前には茶色い髪の男子が座っている。彼の顔に全く見覚えは無い。少なくとも部員ではないし、二年生である確立はかなり低い。同学年にこんな髪の色をした人は見た事が無いから、多分三年生なのだろう。
 一方彼は私を見つめ何か考える素振りをしていたが、直ぐに何かを閃いたように手を叩いた。

「トリックオアトリート?」
「はい?」

 だからトリックオアトリートだって、と掌を私に向かって突き出す。そう言えば、今日は、ハロウィンだ。錆付いた思考でその事実を引き出す。慌てて鞄を漁れば棒付きキャンディを見つけたので、彼に近寄って献上する。ありがとう、とやや間延びした謝礼を述べて、包みのセロファンを破り口に含んだ。ああ、私のプリン味。これってカツアゲだろうか。

「ねえ、君、吹奏楽の子?」

 プリン味のキャンディに注がれた視線を気にせず、へらりと笑って私を指す。人を指しちゃいけないんですよ、ピアノの御仁(仮)。なんて言えたらなあ。多分先輩だろう人に言えるほどの度胸は持ち合わせていない。

「そうですけど、そちらは?」

 聞き返すとピアノの御仁(仮)はきょとんとした顔をする。茶色い癖っ毛の頭を一掻きすると、また笑った。

「通りすがりの者です」
「めちゃくちゃ怪しいじゃないですか、って、あ」

 やってしまった。一年のくせに生意気だとか言われたらどうしよう。思わず腰が引ける。しかし彼はけらけらと笑っていた。

「君面白いねー、一年だよね?」

 はいと裏返った声で答えると、またおかしそうに笑う。笑ってばかりだな、この人。失礼だけれど、こんな人が先程の演奏をしていたのか疑ってしまう。

「よしよし、プリン味のお礼に一曲弾こうじゃないか」

 まるで私の考えを読んだかのようなタイミングで大仰に言うと、鍵盤に指を添える。一呼吸の後、指を滑らせた。


「……どうだった?」

 激しいリズムを刻む胸を押さえるように、私は胸の前で手を組む。凄かった。私の知りうる言葉で表現するにはもったいない程。アップテンポできらきら輝くような、美しい演奏だった。その気持ちが伝わるよう、手が痛いくらいの拍手をする。少しでも伝わったのだろうか、彼は何も言わずにこりと笑った。

「だいぶ遅くなっちゃったし、帰ろうか」

 時計を確認すると、まず生徒は残っていない時間を示している。急いで取り出した携帯電話には、家族からの何件ものメールや不在着信の履歴が表示されている。震える手で電話を掛ければ、何しているだの、今何時だと思っているだの飛んできた。なんて言えばいいのか考えていると、横から電話を奪われる。

「あ、すみません、お嬢さんと同じ学校の支倉と言います。実は練習に熱が入ってしまいまして、はい、責任を持ってお送りしますのでご心配なく。はい、失礼します」

 流れるような説明をし、ぷつりと電話を切った。

「じゃあ行こっか。あ、鍵はご心配なく。これで閉めちゃうから」

 胸ポケットからヘアピンを取り出して私の目の前で振ってみせる。

「いや、鍵、あります」

 スカートのポケットに入れていた鍵を見せると彼は目を丸くし、笑った。

「なんだあ、初めから君に開けて貰えばよかったよ」
「良かったら、明日開けておきましょうか。先輩たちが帰ってくるまでですけど」

と私が言い終わるや否や、彼は私の両手を握り締めた。

「本当? 嬉しい! ありがとね!」

 彼は先程の曲みたいにきらきらとした眩しい笑顔を向けてきた。私の胸はまた激しいリズムを刻みだす。もっと早く、体を突き破るんじゃないかというくらいに。

「ようし、お兄さんがお菓子を奢ってあげよう、ハロウィンだしね」

 私の手からぱっと手を離し、指を振る。

「あ、もういっぱいいっぱいです」
 貴方で、とはさすがに恥ずかしくて言えない。

「あはは、やっぱり君面白いねー。あ、今更だけど君名前なんて言うの?」

 へらっと笑った顔に向かって、私は大きな声で名前を伝えた。



end




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