3話

 フェリの一番最初の記憶は、母親の腕の中だった。その前にも、ずっと何か暖かいものに包まれていた記憶があるけれど、はっきりと覚えているのはそれだった。産まれたフェリを見て、泣きながら「私が幸せにするから」と笑ったもう会えない母親の姿を記憶の中でずっと繰り返し思い出している。独りでフェリを育てていた母親を救ったのは、村の隅で独りで暮らしていた優しい魔法使いだった。フェリの大好きな、ママとパパ。
 
「レノいる?」
 診療所の扉をノックして、フェリは中にいるはずの探し人に声を掛けた。扉を開けたのは、探していたレノックスだ。よく居場所が分かったなと言うように微かにきょとんとした表情を浮かべたレノックスにフェリは少し得意気に口角を上げた。今日は、義母のおつかいだった。
「診療所行くの見掛けたって聞いたから!お母さんがこないだ手伝ってくれたお礼に夕飯一緒に食べよって!」
「そうか、ありがとう……でもその前に、フィガロ先生に挨拶しようか」
「あ!フィガロせんせー、こんにちは!」
「こんにちはフェリ」
 先生には用事はないのかぁ。なんて軽口を叩いたフィガロにフェリは用事があっただろうかと唸った後、思い付いたという顔で「こないだのお薬苦かった!」と舌を出した。
「うーん……薬だからねぇ」
「フィガロ先生なら苦くないお薬作れる!がんばって!」
「フェリは苦い薬と痛い注射どっちが好き?」
「どっちもいやだよ!」
 警戒するようにレノックスの後ろに隠れたフェリにフィガロは「今は元気だからなにもしないよ」とにこりと微笑んだ。
「また風邪を引いたら選ばせてあげよう」
「えー!」
 頬を膨らませてフィガロに抗議する姿はまだまだ幼いが、数ヶ月会わないうちに身長が伸びた気がすると、レノックスはフェリを見下ろした。抱き上げたときに「重くなったな」と言って怒られたのも記憶に新しかった。
「レノ、もう一緒に行く?」
「いや……夕方になったら伺いますと伝えておいてくれ」
「わかった!」
 元気よく出ていったフェリの背中に気を付けて帰るように声を掛けたレノックスの耳に「レノが子供育ててるのを見れるなんてなぁ」という呟きが届いてすぐに「違います」と否定の言葉を返した。フェリには、優しい家族がいるのだ。
「じゃあそういうことにしてあげよう」
 さっき診療所に入ってきたときに挨拶をしていなかったフェリに言い聞かせる様子なんかどう見ても保護者だったけど……レノックスが連れてきた子供が彼にとても懐いていることを思い浮かべて、フィガロはぼんやりと考えた。ミチルに近い年頃の子供を街に連れてきたとき、フィガロは笑顔の裏で呆れていた。重いものをずっと抱えてきたのに、まだ増やすのかと。けれど、たった一人の人間の子供なんて、すぐに死んでしまう弱い命なんて、重さの足しにはならないのかもしれない。
「……それより、風邪引いたんですか?」
「ん?ああ……レノがいなかったときにね。一日で熱も引いたし大丈夫だよ」
 フェリが風邪引いたの初めてだったから少し騒ぎになってたけど。その時を思い出したのか苦笑しながら言ったフィガロに「そうでしょうね」とレノックスは頷いた。移住してから風邪一つ引いたことのなかったフェリが熱を出していたときに付いていてあげれなかったことは少し気になったが、大丈夫と言っているのだから大丈夫だろう。
「過保護だなぁ」
「……そうですか?」
「まぁ……きみの性格なのかな」
 友人に託された子供を放っておくことは彼にはできないだろうと、今は羊飼いとしてここで生きている真面目な青年の背中を叩いた。
「フェリが家で待ってるから早く行ってあげるといい」
「……手伝いはもういいんですか?」
 フェリも彼女を引き取った両親もレノックスのことがとても好きだった。ここで早く向かわせれば感謝されるかもしれないなと考えながら頷いて「俺も行こうかな」なんて冗談を言えば、レノックスは「フィガロ様は誘われてないです」と冗談なのか真剣なのか分からない顔で返してきた。
「……フィガロ様も誘われたがってたって、言っておきますね」
「なんだか俺が拗ねてるみたいだなぁ」
「……違うんですか?」
「はは……言うのはいいけど、それよりフィガロ先生、ね」
「あ」
 なかなか慣れない呼び方にレノックスはそうだったと口を押さえた。ここでの俺は弱い魔法使いのお医者さんなんだからね、微笑んだフィガロにレノックスはなんとも言えない気持ちになった。
 
 フィガロに言われるがまま、早いけど大丈夫だろうかとレノックスはそのままフェリの家を訪ねた。そんなレノックスの杞憂を知らないフェリは、訪問者を見た途端きらきらと目を輝かせた。
「レノ!早かったね!」
 いらっしゃい!と満面の笑顔を浮かべたフェリに手土産を渡して頭を撫でると、少し照れたように眉を下げた。
 
 人間であるフェリの生きる時間は、魔法使いのレノックスと比べたらほんの一瞬のようなものだけれど、彼女にとっては長い長いその時間を……幸せに生きてほしいと願った。
 
 
 (20220131)

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