「…発」
「おう?」
「ちと、いいさ?」

朝歌を目前にした、紂王と争ったその夜の事だった。紂王と衝突したのは真新しい、つい先ほどの事。血の気が悪いのか、目眩さえする。体内の血液は外部へ流れ、止まる事を知らない傷痕は生々しく残るばかり。軽い衝撃で溢れる血液の色が赤いのが気に食わなかった。長く続いた周と殷の戦いも、終止符は見えていた。

「休まなくて良いのか?」
「…俺っちの言いたいこと、分かってるさね」
「…やっぱりな」

口角が歪み思わず双眸を伏せたくなった。師叔にも散々言われた、「武王が自ら殷を終わらせなければならない」。それに納得していない訳ではない、寧ろそうすべきだけれど、流れる血の気はそうさせてはくれない。頭が朦朧とするのも、時々目が霞むのも、自らの限界がそこまで来ているからであろうと推測する。それに気付いているのは、発ばかりではないことも、重々承知していた。

「止めねえさ?」
「止める理由はあんのかよ」
「…わり、」

一段と重くなった頭は、血流のせいではない。発の言葉に目の潤いが増したからだ。溢れそうになる水滴を双眸を伏せて誤魔化した。頬には発の指先が弧を描いてなぞっている。その温い体温が心地好くて、薄らと唇を開くと易々と発のそれに呑み込まれてしまった。唇を啄まれるキスが涙を誘った。酸素が足りなくなるような、貪るようなキスではないのに、酸欠状態の様に脳内は血が回らなくて、苦しかった。本当に苦しかったのは呼吸じゃなくて、胸の内なんだろうが。
漸く離れた唇から洩れた息に甘さは無かった。二酸化炭素は空気中に馴染んでいく。

「俺が行くまで、死ぬんじゃねえよ」
「…ん、王サマイイ所取り?」

額を小突かれ視界が揺れる。と同時に包まれた温もりに漸く安堵の息が洩れた。別れを惜しむ様な切ないものではなくて、甘いもの。頬が綻び、潤った唇を尖らせては暫くは身を預けていた。その間にも、心臓の脈拍と同じように腹の傷も重みが増していった。夢か現か信じがたい狭間に右往左往する。

「…行ってこい」
「発」
「好きだ」
「…俺っち、も」

離れる体温。これが最期になるなんて、思いもしなかった夜更け。黎明の頃には、一人の魂魄が飛び、周の始まりを告げた。

(行くな)(離れたくない)
錯乱した想いの果ては、無だった。