引き留めなかった理由を話せば長くなるかもしれない。本心は、「行かせたくなかった」。…と言えば、お前は怒るだろ?黎明の空に見上げた空には一つの魂魄が流れた。目の前には紂王の姿。それはとても弱々しくて、しかし怯むくらいの圧倒感はそこには在った。



「のう、姫発」
「…なんだよ」
「天化のこと、知っておったろう?」

微かに眉が動いた。殷から周へと国は変わり、仕事に追われる中、訪ねてきた太公望はいきなりそんな言葉を紡いだ。生傷に直接触れられたくらいに、胸は痛くて血が溢れてしまいそうだった。これはからかいではなくて、太公望の眼はあくまで真剣だった。故意に聞いている訳でないことは分かる。しかし、簡単に傷を抉られて言葉を詰まらせてしまう俺に、何よりも苛立った。分かっていなかったのは、俺の方だと言わんばかりに。

「…知ってた」
「そうか」
「んで、それがどうした?」
「…立派になったのう」
「誰が?」
「おぬしじゃよ。会いたいろうに」

静かに流れる風の音が、やけに耳障りだ。本当は、何も聞きたくない、何も見たくない、何も感じたくない。小さく溜息を吐くと、太公望の掌が目蓋に覆い被さった。辺りは暗くなる。そっと目蓋を閉ざせば、我慢してきた疲労と安堵と、空虚な寂々とした感情が目まぐるしく脳内を駆け巡った。鼻の奥をツンとさせて、目尻には泪が溜まる程に。

「仕事が溜まっとるのは分かる。しかし、休め。まだ傷は癒えておらん」
「…おう」

頬に伝ったのは、赤い血ではなく泪だった。酸素を求めて開いた唇を塞ぐものはもう無くて、それを知っても尚、既に居ない姿を思い浮かべては小さく息を吐いた。こんな姿、お前が見たら笑うんだろうな、と自嘲気味に笑みを洩らしながら。

「太公望」
「…ん?」
「これで良かったと思うか?天化は、」
「言うな。それはおぬしがよく知っておるだろう」

閉じていた目蓋を開くともう、日が暮れ掛かっていた。橙の空は、やけに胸騒ぎがする。失って気付くものは、大きい。腫れぼったい目蓋で太公望を一瞥すると、申し訳無さそうに目尻は下がっている。止められた言葉を上手く呑み込む事は出来ずに、暗闇と化しようとする空にその言葉を投げ掛けた。返ってくる筈もない答えを期待しながら、黒に染まりたい衝動に掌を伸ばす。

「幸せだった?」