聴こえるのは、ざあざあと降り続く雨音だけ。ぐちゃぐちゃになった地面を歩く足音も、風で木々がざわめく音も、心臓が脈打つ音すら跳ね退けて、それはわたしの聴覚を支配する。ざあざあざあざあ、まるで頭の中で直接響いているんじゃないかと思うくらいに。もうどれほど歩いていたのかもわからないけれど、冷えきった身体からはとうの昔に感覚なんて消えている。目指している場所なんて無い。ただ土砂降りの中をひたすら歩く。脳裏にこびりついたあの人の声を掻き消したかった。

「何してるんですか!」

不意に雨音を割って、鋭い声がわたしの足を止めた。ひたすら交互に動かしていた両足は痺れている。近づいてきた荒い呼吸の音と腕を掴む体温を認識して初めて、わたしは自分の眼が熱を持っていることに気づいた。ついでに雨音が少し変化して、彼が傘を持ってきてくれたことを知る。けぶる視界の先に暗く広がる海が映って、いつの間にかこんなところまで来ていたのかと、他人事のような言葉が浮かんだ。

「…身投げでもする気だったんですか」

何かを堪えるような哀しい声が耳朶を打つ。振り向くと存外近くにあった銀灰色の瞳が、ゆらゆら揺れていた。違うよと言いたいのに、口を開くと出てくるのは子供のようにしゃくり上げる泣き声だけ。力無く首を左右に振る。濡れた髪が頬に張り付いた。それを見た彼の左手が、わたしの腕を離れてそっと頬に触れる。優しい指先が髪を退けて、熱くなった眼をゆるやかになぞった。せっかく白い手袋で雨粒を拭ってくれたのに、そのせいで今度は別の水分が頬を流れていく。ついさっきまでは心地好いとすら感じていた雨音が、今はひどく耳障りだ。不安定な呼吸を必死で抑え、震えないように声をしぼり出す。

「…ごめん…ちょっと、ぼうっとしてただけだから…心配かけて、ごめん…」
「いえ、無事でよかったです」

途切れ途切れに謝罪の言葉を繰り返すと、彼はそう返して微笑った。初めて会ったときから変わらない、優しい表情。なのにどうしてあの人たちは、アレンをあんなふうに扱うのだろう。この人はノアなんかじゃない。飼うだなんて言う権利はあなたたちには無い。なのにどうして、

「泣かないでください、僕は大丈夫ですから」

どうして、彼はこんなに優しくいられるんだろう。ただ泣くことしかできない自分が情けなくて、今は頭を撫でてくれていた大きな掌をそっと掴む。あったかい。呟いて唇を寄せると、細い指がぴくりと震えた。


In die hohle Hand Verlangen.



もしも神様なんていうのが本当にこの世にいるのなら、どうかもうこれ以上彼を苦しめないでください。自分が辛いときでも誰かを心配するような優しすぎるこの人を、どうかわたしから奪わないで。
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