三年後直前の話


時々、彼はふと思い出したかのように笑う。此処ではない何処かを見て。私ではない誰かを想って。それが懐かしむような、寂しそうな笑い方だったから、何も知らない私はその理由を尋ねたことは一度も無かった。けれど。

「…今日は、泣くんだね」

気づいたら声が零れていた。彼が涙を流す様など初めて見たから、自分でも思った以上に動揺しているらしい。瞳はいつもと同じだった。でも、笑ってはいない。驚いたように私を見上げる彼の頬に、少し迷ってから指先を伸ばす。爪先から温かい雫が伝った。その温度を分けてもらえたらと、そんな浅はかな願いを抱くようになったのは一体いつからだっただろう。彼と出逢って、もう三年近く経つ。

「今日は、って…」
「いつもは、笑うから」
「俺、笑ってたのか?」
「時々。…ねえ、」

誰を、想っているの?
声が震えないように力を込めて、言う。ずっと訊かないつもりだった。人里離れた森の奥でずっと独りで生きていくはずだった、私を見つけてくれた半妖が、誰を愛しているのかなんて。
だけどもう、目を逸らすのが限界だということも、たとえ向き合ったとしても叶わないことも、わかっている。彼のおかげで外を知った私はもう独りではない。これ以上、彼に依存するのは赦されないと思った。

「…誰より、何より…大事だったやつがいたんだ」
「今は、いないの?」
「いるべきところに、帰った」

ぽつぽつと、静かな声が空気を揺らす。楓様の村にいるときの彼を何度か見かけたが、一度だってこんなふうに落ち着いた様子ではなかった。だから自分は彼にとって特別なのだと、無邪気に喜んだ時期もあったけれど。それは決して私が望んでいた意味ではないのだ。

「昨日、星が動いたよ」

まだ冷たい春の風を吸い込んで、できるだけ落ち着いた声を出す。膝を折って隣に座ると、怪訝そうにこちらを見る彼の髪が手の甲を掠めた。月の光を受けて輝く銀。何よりも綺麗だといつも思っていた。

「前に話したでしょう?人にはそれぞれ、自分の運命を映した星があるって。半妖も同じ」
「ああ…おまえの得意な占か」
「そう。だからね、犬夜叉。きっともうすぐ逢えるよ」
「…」
「…あなたが待ってる、大事なひと。もうすぐあなたに逢いに来るよ」

私は今、どんな顔をしているのだろう。できる限りの微笑みを浮かべているつもりなのだけれど、生憎あまり表情を繕うことに自信はない。それでもゆらゆらと揺れる金色に目を合わせて、私は鉛のように重い口を開く。そのひとのところへなんて行かないで、ずっと私の傍にいてほしい。そんな醜い本音は押し殺して。

「大丈夫。きっと心穏やかに過ごせるから」

目の奥に熱が生まれる。気づかれる前に立ち上がって、彼に隠れて乱暴に目元を拭いながら朱い衣の袖を引く。よろめくように立ち上がった彼を見上げて、もう一度、笑顔。私とは反対に、彼はその端正な顔をくしゃりと歪めた。

「…もう、会えないのか」
「あと数日くらい、我慢できなくてどうするのよ」
「そうじゃなくて、」
「そのひとのこと、誰より大切なんでしょう?なら傷つけるようなことはしちゃだめだよ」

会えないなんて嘘だ。ましてや会いたくないなんてわけがない。だけどきっと、そのひとは傷つく。自分の代わりに彼の傍にいた私を知ったら。だからもう、逢えない。黙ってしまった彼の手を引いて、森から村への帰り道を歩き出す。森の入口で立ち止まった彼にさよならと呟く以外、会話は無かった。夜の闇にとけて段々遠ざかって行く朱と銀の背中が滲む。送り出す寸前に抱きしめられたこの身体が、今すぐ滅んでしまえばいいと思った。







もう彼が此処に来られないように、今までの何倍も強い結界を張り巡らせた、その幾日か後の夜。独りで見上げた空に浮かぶ彼の星は、他の誰かの輝きと寄り添っていて。逢えたのだなとぼんやり思った瞬間、生まれて初めて、声を上げて泣いた。
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