あんまり驚いたものだから、一瞬本気で心臓が止まるかと思った。笑ったり怒ったりする顔は毎日飽きるほど見ているけれど、泣いているところに遭遇したのは初めてだから。何か声をかけようにも言葉が見つからない。ぱくぱくと魚のように口を開け閉めしている姿はきっとさぞ間抜けなのだろうなと、変に冷静な頭の片隅がまるで自分は別の生き物なんだと言わんばかりに俺を嘲笑う。長い睫毛からまたひとつ、ぽろりと雫が生まれ落ちたのが見えて、ようやく声帯は彼女の名前を呼ぶことに成功した。途端、大きく肩を震わせた女は逃げるように立ち上がる。走り出す前に細い手首を捕まえると、離して、と存外しっかりした声音に鼓膜を揺さぶられた。

「嫌だ」
「なんでよ」
「離したらどっか行くだろ」
「別にいいでしょ」
「良くねえよ馬鹿野郎、」
「馬鹿はどっちよ!」

悲鳴のような叫び声に、少しだけ隙ができた。強く振り払われた手が行き場を無くす。見上げてくる瞳は鋭くて、けれど今なお涙を浮かべているそれは確かな痛みを孕んでいた。女の足元にはあまり大きくない彼女の荷。かごめと分けて持っていたはずの四魂のかけらも弓矢も借り物の巫女装束も、こちらに来てから女に与えたものはすべて楓ばばあの家に置き去りにされていた。

「…とにかく帰るぞ、かごめもばばあもみんな心配してる」
「帰らない」
「てめえ、この期に及んでまだ、」
「あたしは帰らない、帰りたくない帰れない!」

また、悲鳴。突き刺すような言葉に何を返せば良いのかわからなくて、俺は再び恐る恐る女の腕を掴む。このままどこかへ行かれてしまうよりはマシだと思ったのだけれど、それまで静かに泣いていた彼女が初めて嗚咽を漏らした。

「犬夜叉は、ずるいよ…」
「…」
「かごめの方が、大事なくせに…なんで…引き留めたりするの…」
「おまえだって、」
「大事だなんて、言わないでよ!かごめが居ればあたしは要らないじゃない!」

そこまで叫んで、女はかくりと座り込んだ。引っ張られるようにしてしゃがんだ俺の胸に、掴んでいない方の手が当てられる。紅い衣を握りしめる白に己の掌を重ねることはできなかった。







彼女が要らないわけじゃない。それでもかごめの方が大事なのだというのは必ずしも否定できることじゃなくて、だから俺は彼女の手を離すことも抱きしめることもできず、そうして少し星が動いた頃、女は泣き腫らした真っ赤な目でぽつりと、ごめんね、帰ろうか、と呟いた。
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テーマ「人外ファンタジー」
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