そこで見ててね、と。
たったそれだけ言い残し、彼女は躊躇う様子など微塵も見せず、夕方の海に足を踏み入れた。引いては押し寄せる波をものともせず、ただひたすら、沖へ向かって歩いていく。彼女の鳩尾から下が見えなくなったあたりで、僕はようやく彼女の名前を呼んだ。振り向いた顔は、鮮やかな夕陽の影になってよく見えない。

「なにしてるの」
「自殺未遂」
「やめてよ人の目の前で」
「いいじゃん、未遂なんだから」

そう言ったきり、彼女は口を閉ざした。進む気も戻る気もないらしく、立ち止まってそこから動かない。溜息をついて、僕も揺れる海の中へと歩を進めた。まだ冷たい水のせいで制服がみるみる重さを増していく。明日が休日でよかったと、頭の隅でそんなことを思った。

「ほら、もう帰ろう」
「えー」

彼女のすぐ前に立っても、水面は僕の腰までしか届かない。海に浸かった細い手をとる。指を絡めて言うと、彼女はまだ遊び足りないのに帰宅を促された子供のような、ものすごく不満げな顔をした。それがあんまり幼いものだから、僕はついくすりと笑ってしまって、彼女はますます渋い顔。なによ、と詰る声まで子供みたいだ。

「……やっぱり、もうちょっと遠くまで言ってみようか」
「え…っ、わ!」

繋いだ手を引き寄せ、小さな身体を抱き上げる。お姫様だっこ、なんてかわいらしいものじゃなくて、どちらかって言うと幼い子供をあやすときの体勢みたいな。半分以上ずぶ濡れなのに、彼女は驚くほど軽い。

「ちょっとタクトなにしてんの降ろしてよやだ重いでしょ?!」
「いやー逆に軽すぎてびっくりした。君ちゃんとご飯食べてるよね?」
「食べてる!から!降ろせ!」
「それは了承しかねますなあ」
「なんでやねんええからはよ降ろせアホ!」
「なんで関西弁?」

僕は笑いながら、彼女は夕陽のせいだけではない赤で頬を染めながら、ざぶざぶと波を掻き分け海を進む。そうやって歩いて、僕の肩下まで水が迫ったあたりで足を止めた。彼女は早々に観念したらしく、黙って僕の肩にしがみついたまま水平線を見ている。ついさっきまでまるい形をしていたはずの橙は、いつのまにやら一筋の光を残して世界から消えようとしていた。

「…夜になるね」
「そうだね」
「…タクト、さむい?」
「ちょっとね」
「……かえろっか」
「うん」

静かな声に頷いて、僕は踵を返す。ちらりと盗み見た彼女は、さっきまでとは正反対の、大人びた顔で笑っていた。



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