わたしという生物は、良くも悪くもとことん他人に無関心だった。別に友達がいないわけではない。他愛のないお喋りで時間を潰すのは嫌いじゃないし、必要最低限の思いやりくらいは持ち合わせているつもりだ。けれどもわたしの生活に他人が必要かと問われればその答えは否である。何故なら興味がないから。でも生きていく上で他人と関わることは、避けては通れない道である。だからわたしは愛想笑いもできるし、他人の相談に乗ることもできる。ただそれだけ。

だから彼はわたしの中ではまさに異質としか言いようのない存在であった。言葉を交わしたのはただ一度。去年も今年も違うクラスだし、その時はまだ名前すら知らなかった。

「うぎゃっ!」

HR終了直後の生徒で溢れ返った廊下で、彼は蛙が潰れたような叫び声を上げながら鞄の中身を盛大にぶちまけていた。それを迷惑そうによけて歩く生徒たちに謝りながら、彼は慌てて散らばった教科書やらノートやらを拾い集めていく。ふと自分の足元を見ると、彼の物らしき青いノートが一冊。「沢田綱吉」と書かれたそれを拾い上げ、ようやくすべて片付けたらしい彼の元へ向かう。普段なら放っておくはずなのに、あの時のわたしは何故あんなことをしたのだろう。理由は今も解らない。

「沢田、くん?」
「えっ?!」
「ノート、まだ落ちてたよ」
「あ、ああ、ありがとう」

閉めかけていた鞄を慌てて開け、沢田くんはわたしが渡したノートを乱雑に仕舞う。ふわふわと揺れる茶色い髪を何とは無しに眺めていると、彼は何を思ったのかわたしの顔を見て僅かに眉を下げた。

「…なに?」
「えっ、いや、あの、」
「わたし、なんか変?」
「ち、違う違う!全然大丈夫!…ただ…」

両手と首をぶんぶんと横に振って、沢田くんは少し躊躇った様子で口を開く。大きな目がわたしを見たり地面を見たり。少しだけ不愉快だと思ったとき、弱々しくもはっきりとした彼の声が、わたしの聴覚を捕らえた。

「…なんでそんなに、寂しそうな顔をしてるの?」

さびしそうな。さびしい。…さびしいって、何?
彼の言葉が、どこか遠い国のもののように聞こえた。がやがやと五月蝿い廊下の雑音をシャットアウトとして、平仮名の羅列をどうにか意味あるものにしようと脳をフル回転させる。寂しい。あやふやな言葉がやっと漢字に変換できたとき、今度は思考が一気にフリーズ。寂しい顔?わたしが?

「…なにそれ」
「あ、ごっ、ごめん!そうだよね、俺とかにそんなこと言われたくないよね!」

本当にね、と。そんなふうに返したかったのに、わたしの喉は震えてしまって何も言えない。頭の奥底に何重にも鍵をかけてしっかり蓋をした何かが、カタカタと音を立てて溢れ出そうとしている。開けたら死んでしまうと、馬鹿なことを考えた。

「…じゃあね」

結局そんなことしか呟けず、わたしは必死でわたしの中の匣の蓋を押さえ付けながらその場から逃げた。後ろで沢田くんが何か言っている気がしたけど、振り返らず階段を駆け降りる。忘れたかった。言われたことも、彼のことも。けれど彼はその後いつまでも、わたしの記憶に唯一深く残り続けた。卒業してからはそれきり姿を見かけることはなかったのに、何年たっても、わたしはあの日の彼の声も表情も何もかも、忘れられていない。





最初で最後の言葉を交わしたあの日から、彼女はほとんど変わっていなかった。細い肩からさらりと流れる真っ黒な髪も、薄く氷を張ったような丸い瞳も、微かに寂しげな表情すらもすべて。

「…沢田くん」

感情の読めない声音が、ゆるやかに鼓膜を叩く。名字を呼ばれたのは随分久しぶりだと場違いな思考。彼女の白い手に握られている黒は、細く煙を吐いて沈黙していた。

「…君が、やったの」

質問ではなく確認だった。何を、などとは聞かない。小さな頭がこくりと頷く。この場に在るのは俺と彼女と、物言わぬ死体がひとつきり。麻薬売買でのし上がっていたマフィアのボスだった男は今、禿げ上がった額から赤黒い液体を流して、見開かれた不気味な目を宙に向けている。それだけ認識すれば状況把握などあまりに簡単すぎることだった。

「わたし、殺し屋なんだ」

平然と言ってのけて、彼女は静かに俺に向き直る。銃を持った女が同じ部屋の中にいる。それなのに俺は、不思議と身の危険を微塵も感じなかった。

「ボンゴレ十代目って、もしかして沢田くん?」
「…うん」
「へえ、意外。もしかして仕事の邪魔しちゃったかな」
「いや、どうせ君と同じことしただろうし大丈夫」
「なら良かった」

本当は交渉をして、それが決裂したらの場合だったけど。そんな意味の無い言葉は飲み込んだ。世間話をするように口を動かす彼女は、相変わらず無表情のまま俺を見ている。どう返したらいいものかと迷っていると、不意に人形のように白い手が銃を放り投げた。がちゃんと耳障りな音を立てて床に落ちたそれに一瞬気を取られる。その隙に彼女は無駄に大きいデスクの奥に掛けられていた深紅のカーテンを思い切り開け放った。白い光が悪趣味な装飾品だらけの部屋を満たす。次いで窓の鍵を開ける音。慌てて駆け寄りスーツの腕を掴んだ時、彼女の身体は既に半分以上がイタリアのまだ肌寒い外気に晒されていた。

「いきなり何してんだよ!危ないだろ!」
「…わかんない…」

部屋に引き戻して思わず怒鳴ってしまうと、彼女はさっきまでの感情の欠片も見えないポーカーフェイスが嘘みたいに泣きそうな顔をしていた。わからないと、そればかり繰り返す。いつの間にか抱きしめていた身体は微かに震えていた。

「…泣いていいよ」

何も知らないのに、何となくそう言ってやらなくてはいけない気がして。背に回された手が服に皺を作るのがわかった。そうっと触れた髪は、するりと俺の骨張った指を通す。押し殺された泣き声に目を閉じながら、腕に少しだけ力を込めた。






とりあえず落ち着いたら、俺のところへおいでと誘ってみよう。彼女のことなんて本当に何ひとつ知らないけれど、それでも君はひとりじゃないと、俺がいるよと伝えたい。
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