蝶とワルツを






仕事帰りに、なんとなく彼女に会いたくなっ て店のドアを開ければ、ちりんと鈴の音と共 に店員の挨拶が響いた。

狭い店内には疎らに人がいて、立ったまま本 を読み耽っている。

僕はきょろきょろと狭い店内を見渡し、目当 ての人物を探した。

入口からの死角、カウンターのすぐ近くで、 彼女は本を整理しながら接客をしていた。 綺麗に切り揃えられた金髪が赤いニットの上 で揺れている。その後ろ姿に無性に抱き着き たい気持ちを押さえつつ、客と話し終えた様 子の彼女に近づく。

「こんにちは、ベルさん」

にこやかな営業スマイルを湛えていた彼女に 挨拶をすれば、振り向いた彼女は少しだけ素 の顔を見せた。

僕の顔を見て他の客にはわからないよう顔を 引き攣らせ、なんで来たの、とでも言うよう に瞳で合図をする。

なんで来たのか。僕にも理由はないけれど、 なんとなく、君の顔が見たくて。

そう告げると彼女は3秒くらい何も言わずに可 愛く僕を睨みつけ、ぷい、と本棚の陰に隠れ てしまった。

嫌がられるのはわかっているけれど、彼女の 後を追う。

ほら、やっぱりそんな瞳で僕を責めるから、 僕はキミの後を追った理由を見つけなくちゃ 。

「ええと、そうだ。中世絵画について書かれ た本を探しに来たんですよ」

ここが芸術コーナーだということを確認し、 適当に目の端に入った本のタイトルを告げる 。

彼女はため息をついてしぶしぶ目の前で微笑 む厄介な「客」の相手を始めた。

「ええと、その本なら確か…あ、あった。あの 青い背表紙の本」

彼女の背よりも少し高い場所にあったその本 に彼女が手を伸ばす。

「…僕、取りますよ?」 「結構です。店員なんだから私が取ります」

すっと彼女が背伸びをした瞬間、彼女の柔ら かい金髪が僕の目の前を通り過ぎ、シャンプ ーの香りが鼻孔をくすぐった。

それは、いつも控えめに香る甘いものとはち がう、幾分スッとした柑橘系の香り。

「はい。表紙はちょっと古いけれど、中はま だ綺麗な状態よ」

僕はその香りに意識を囚われて彼女の差し出 す本を受け取ることを忘れていた。 じっと彼女を見つめる僕の様子に首をかしげ 、ベルは僕に差し出していた本を胸元に抱え 直した。

「…なに?これじゃなかった?」 「…いえ、合ってますよ」

小首をかしげる彼女に僕は腕を伸ばし、金の 髪をさらりと撫でた。

そのまま少しだけ屈んで、掬った彼女の髪に 鼻を近づける。

微かに香る時とはまた違う香りに瞳を閉じ、 まるで上質のワインを嗜むかのように彼女の 香りを堪能した。 そうしていたのはほんの数秒だったが、僕に はそれで充分過ぎる程満足できた。

顔を上げれば、彼女は驚いた表情で僕を見上 げていた。 その頬は桃色に染まっている。

「…髪、いい香りですね」

そう言うと彼女は更に真赤になって、それか ら拗ねたように眉をしかめ、そっぽを向いた 。

「あ、いえ、もちろんいつもの香りも好きで すよ。ただ、同じ物でも使う人が違うだけで こうも香るのか、と思いまして」

そう。いつもと違う柑橘の香りは、僕の家に 常備されている物。 普段自分が使ってても全然気にならないのに 。 おんなじシャンプーでも君が使うとこんなに いい香りになるんですね。

そう言って感心していると彼女は僕を見つめ 、それから髪を一房、指に絡めて俯いた。

「……ミシェルさんの匂いも変わらないわよ。 私と。」

「そうかもしれませんね。ですが、自分が使 ってもよくわからないので」

ははは、と笑うと、ベルは指で弄んでいた髪 を自らの鼻に近づけ、顔を伏せたまま、ぽつ りと呟いた。

「私は嫌い。この香り」

「はは、手厳しいですね」

「だって、この香り…落ち着かないんだもの。 この香りのせいで今日はぼうっとしちゃって ミスばかりだし」

ベルの声は次第に早口になっていく。 シャンプーの香りが嫌いなだけでこんなに拗 ねるわけがない。 僕は俯いた彼女の意図が掴めず、首を傾げた 。

「…えっと、つまり…」

どういう事ですか?と尋ねれば、ベルはきっと 顔を上げて僕を睨んだ。

「…だからっ!ミシェルさんの事ばっかり、思 い出しちゃうのよ!ばかっ!」

「え」

ベルはそう言うと急に僕の胸に本を押し付け た。

「…ちょっ、待っ…」

反射的に本を受け取ると、ベルは僕の横を摺 り抜け、僕が止める間もなく、逃げるように 従業員用の奥の部屋に入ってしまった。 バタン!と響くドアをぽかんと見つめ、僕は彼 女を止めるため曖昧に伸ばした腕を降ろした 。

それから、彼女が去り際言い残した言葉を思 い出す。

「……参ったな」

去り際に香るシャンプーの香りと、真赤な彼 女の顔が僕の脳裏に焼き付いていた。

それを思い出し、顔の温度が上昇していくの が自分でもわかった。

ああ、僕の恋人は、なんて可愛いんだ。

普段と違う彼女の行動に目を丸くした客達が 従業員用のドアと僕を交互に見つめる。 そんな好奇の視線が注がれていたが、僕はそ れどころじゃなかった。 顔の筋肉が緩みっぱなしだ。 それを隠すためにベルから投げつけられた本 で口許を隠したが、どうしても治りそうにな い。

だって、あのドアの向こうにいる彼女が今ど んな顔をしているか想像するだけで、一旦は 引き締めようとした顔がすぐに緩むんだ。

僕は、本を読む振りをして顔を隠したまま勘 定を済ませて店を出た。

さあ、彼女が今日帰ってきたら、どんな風に 可愛がろうか。 ああ、その前に機嫌を直さなきゃ。 彼女の大きな荷物もまだ整理できていないし 、今夜はそれを手伝ってあげよう。 それから…そうだな。

僕は評判のケーキ店に寄って、彼女の大好き なクレームカラメルを2つ買った。

僕の緩いウェーブが掛かった髪をベルが撫で 付け、つむじにキスしてくれるまでには、こ れだけじゃ足りないかもしれないけれど。

数時間後には彼女があの香りを纏って帰って くる。 僕は軽くスキップでもしたい衝動を抑えなが ら、どうやって彼女の甘い囁きを聞こうか考 えていた。






END

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同棲1日目の2人。

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