36.for my dear...

 デンジ君と結婚してから二度、季節が巡った。変わったことはいくつもある。マキシさんが不在のとき限定ではあるけれど、ノモセジムのジムリーダー代理として本格的に働き始めたこと。いろんな地方に行って、新しい仲間に出会えたこと。
 そして、小さな家族が一人増えたこと。

「まー、まっ」
「なぁに? どうしたの?」
「ぱ、ぱっ」
「パパはまだお仕事よ。もう少ししたら……! ほら、帰ってきた」

 そう言ってこの子を抱き上げると、この子は顔全体を使って嬉しそうに笑った。ナギサの空のような青い髪と、ナギサの海のような青い瞳。一目見た印象は私似だけど、整った顔立ちはデンジ君にとてもよく似ている。
 この子を産んでから育児休暇をいただいている私にとって、ジムから帰ってくるデンジ君をこの子と一緒に迎えることも、大切な仕事の一つだ。この子を抱いて、玄関まで急ぐ。

「デンジ君、お」

 かえりなさい。お迎えの言葉はなまあたたかい感触に飲み込まれ、最後まで続かなかった。恥ずかしくて、この子の顔を胸に押しつけて視界を妨げる。だって、赤ちゃんとはいえ、子供の前でこんなキスをするなんて。
 散々弄んだあとで、デンジ君はようやく私の唇を解放した。なんだか、うん、すごくいい笑顔だ。これは。

「ただいま」
「……おかえり、なさい」
「ん」
「あの、なにかあった?」
「なーんも? いつも通りさ。いつも通り」

 これは、まずい。
 お風呂をためるから見ていて欲しいと言ってこの子をデンジ君に渡し、お風呂場に向かう。お湯を勢いよく出せば、抑えた声はかき消されてしまうはず。

「もしもし。オーバ君?」
『お! レインか? 久しぶりだな』
「ええ」
『どうした? 惚気は聞かねーぞ?』
「ち、ちがっ」
『ははっ! 冗談だって! でも、改めて電話するくらいなんだから、何か用事なんだろ?』
「ええ……デンジ君のことであることに変わりはないのだけれど」

 このことは、やっぱりオーバ君に相談する以外に適任者がいない。

「デンジ君がまた、なんというか、バトルのことでスランプになってるみたい」
『……はぁ!? え、また!? これ何度目だよ!?』
「あ、本人にはっきりと聞いたわけではないのだけど、たぶん……」
『や、レインが言うんだからそうなんだろ。はー、父親になっても変わらねえなぁ』

 まだ唇に感触が残っている。苛立ちやストレスを紛らわせるようなキスだった。デンジ君は、あの子が産まれる前は苛立ちやストレスを滅多に吸わないタバコで紛らわしていたのだけど、今はそうすることもない。

「昔みたいに何もかも嫌になってしまう前に、デンジ君を熱くさせてくれるようなトレーナーが現れてくれたら……」
『……仕方ない』
「え?」
『まだジムリーダーには知らせてないんだけどよ、レインが心配でおかしくなってからじゃ遅いし、特別にいいこと教えてやる!』
「いいこと?」
『ああ。まだデンジには内緒だぞ?』
「?」
『来月から、ジムリーダー及びチャンピオンにはイッシュ地方で開催されるポケモンバトルの世界大会に出場してもらう!』

 話の内容より先に脳が捉えたのは、イッシュ地方という単語だった。記憶の片隅に残っていた、悲しい王様の笑顔が浮ぶ。彼は今、どこかでちゃんと笑えているのだろうか。



20130414



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