last day〜さいごの時間

比較的、朝は遅めに起きるレインがオレより早く起きてベッドから抜け出していた時点で、予兆はあった。妊娠中のレインはトイレが近くなっていたし、トイレに起きたのだというレインの言葉に何の疑問も抱かず、今日は祝日だからと二人して二度寝した。
そして朝食をとった後も、レインは何度もトイレに行きそわそわとしていたものだから、これは何かあるなと思って問いかけると、おしるしという赤ちゃんが産まれる前兆のものが出たと言うのだ。おしるしが出たからと言ってすぐに出産に結び付くわけではないようだが、さらにレインは、時おり水っぽい何かが出ている感覚があるのでもしかしたら破水したかもしれない、と言うものだから、身が引き締まった。予定日まであと十日ほどあったが、いよいよ、というわけだ。
レインが産院に電話している間に、入院するための準備を済ませていたバッグを車に詰め込む。破水というからには、水風船が弾け割れるように、もっとドバッと羊水が出てくることを想像していたが、レインの様子だと座席が濡れないように用意していた防水シーツやバスタオルは必要ないかもしれない。と考えていたところで、電話を終えたレインが家から出てきた。破水かどうか確認をするので入院グッズを持って産院に来てください、とのこと。そのまま車に乗り込み産院へ直行した。
そして、現在に至る。レインは着くなり内診や赤ちゃんの状態を見るためのノンストレステストとかいうものをするため、診察室内に連れて行かれた。ノンストレステストが長いんだこれが。
待ち時間の間に、とりあえずショーマに連絡して明日のジムは休むかもしれないということを連絡した。あとは、オレとレインの父さんと母さん、それからまだかまだかとうるさいオーバにも一言メッセージを入れた。すぐに既読がつき、俺も今から向かう!と返信が来たものだから、待合室の隅っこに行って電話し、産まれたら連絡するからステイ、とだけ言って切った。早く赤ちゃんに会いたいという気持ちは有り難いが、押し掛けられるレインの負担も分かってやってもらいたいものだ。
関係者に連絡を済ませた後、それでも時間が余ったので、立ち会い出産時の父親の仕事をネットで検索してみることにした。写真や動画を撮ること、は何となくイメージがついたが、他に書いてあることは目を点にするしかなかった。
分娩時、妻にどんな暴言を吐かれても暴力を振るわれても耐えること。妻がどんなに叫んだりのたうち回っても引いたりしないこと。汗を拭いてやったり水分を補給させたり団扇で扇いでやったり、とにかく妻の要求にはイエスマンとなって尽くすこと。間違っても寝こけたりスマホやゲームをいじったり一人で食事をしたりしないこと。
まあ、なんだ、レインが頑張っている間に寝たりゲームをしたりするほどオレは無神経ではないと思うが、こう書いてあるからには世の中にはそういう旦那もいるのだろう。しかし、暴言やらのたうち回るやら、普段のレインからは想像できない単語が並んでいるが、出産となるとやはり人が変わってしまうのだろうか。鼻からスイカを出すような痛みとは聞くし、それだけ痛ければ確かに叫びのたうち回るのかもしれない。心構えはしておこう。
何よりも一番重要なのが、テニスボールでお尻を押してやる、というものらしい。よく分からないがテニスボールなんて準備したっけ、と考えていたときに「デンジ君」と呼ばれて顔を上げる。

「レイン。大丈夫か?」
「ええ。やっぱり破水みたい。前期破水ですって。今からこの入院着に着替えて、破水してるから赤ちゃんが感染しないように抗生物質を点滴して、陣痛室で待機。このまま入院ですって」
「そっか。いよいよだな」
「うん……ドキドキしちゃう」
「オレはついて行っても大丈夫なのか?」
「ええ。面会時間が二十時までだから、それまでは陣痛室での家族の付き添いは大丈夫なんですって。ただ、その時間を過ぎても赤ちゃんが産まれる気配がない場合、一旦帰ってもらうことになるらしいのだけど」
「お待たせしました。陣痛室に案内しますね」
「あ、はい」

ナースについて行きエレベーターでニ階に上がり、新生児室の前を通りすぎる。小さなベッドに並んでいる赤ちゃんたちを見ると、今からレインのお腹からも同じサイズの子が出てくるということが、不思議でたまらない。改めて思う。そりゃ、痛いよな。叫びたくもなるよな。

「レイン。オレはレインのどんな姿だって受け止めるからな。レインの好きなように産んでいいからな」
「?う、うん?」
「っ……つっ!!」

呻き声。そう当てはめるのに相応しい声がして、思わず硬直し立ち止まる。オレ達を案内していたナースが、レインが持っているものと同じ入院着を着て窓辺に手をついて呻いている女性の腰を擦り、一言二言話しかけると、お待たせしましたと言ってまたオレ達の案内を始めた。

「あ、あの」
「はい?」
「さっきの人、あんなに苦しそうなんですけど、付き添わなくても大丈夫なんですか?」
「ああ。あの人は昨日から入院してて、ちょっと前に内診したけれど、陣痛は来てるけど子宮口がまだ開いてなかったから、まだまだ時間がかかるの。ああして陣痛の合間に動いて、お産を進めている段階だから大丈夫ですよ」
「そう……なんですね」

レインの笑顔が強ばっているのも珍しい。が、その考えが手に取るように分かってしまう。 あんなに苦しそうな状態であってもまだ時間がかかるのか。まだ産めないのか。いずれ自分もああなるのか、と。
陣痛室というからそんなに広くない部屋なのかと想像していたが、ベッドやテレビやローテーブルやソファー、冷蔵庫などが置いてあり、下手したら格安ビジネスホテルなんかよりよっぽど快適そうだった。そこで入院着に着替えたレインは、検温や血圧測定やノンストレステストや点滴をしていたようだ。オレはというと、荷物を置いたあと一旦部屋を出て、コンビニで軽食や飲み物を調達して部屋に戻った。
レインの腹からノンストレステストの機材を取り外しながら、看護師、もしくは助産師の女性が言った。

「赤ちゃんは元気みたいだから一旦外しますね。お腹の張りもあまりないようだけど、痛みはありますか?」
「いえ。特には…」
「そう。まだ時間がかかりそうですね。お産は明日になるかも。でも破水をしてるから、様子を見ながら促進剤を使うことも検討しましょう」
「は、はい」
「昼食の時間は終わったけど、おやつと夕食は出ますから。ゆっくり休んで体力を温存していてくださいね」

女性は一礼して、部屋から出て行った。緊張が微かに緩む。

「まだかかりそうだってな」
「ええ。なんだか、残念なようなホッとしたような…でも、デンジ君と二人だけで過ごす時間は、あと少しなのね」
「レイン……」
「体はなんともないし、本当は付き添いなんてまだ要らないのかもしれないけど、よかったら面会時間ギリギリまで一緒にいたいな」
「ああ。もちろん」

もしかしたらお腹の中の子は、オレ達に心の準備をする時間をくれたのかもしれない。きっと、明日になれば今までとは全く違う生活が待っている。だから、最後の最後まで、二人だけの時間を大切にしよう。これまでのこと、これからのこと、たくさんの話しをしよう。
そして、面会時間が終わり、オレが帰ったあと、レインの体を耐えがたい痛みが襲ったのだ。





2018.8.6

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