9months〜波のこもりうた

キッチンの片付けが済んだ頃、時計の針は二十ニ時を回ったところだった。明日は休みだ。借りてきたDVDを見ながらゆっくりしようという約束のため、レインがいる寝室へ向かう。
寝室が近付くと、微かにレインの声が聞こえてきた。歌だ。誰もが聞いたことのあるような、子守唄を歌っている。ああ、きっと腹の中の子に歌い聞かせているんだろうな、と思うとドアを開けようとしていた手が止まって、オレ自身もその歌に耳を傾けた。
歌が終わって、ようやくノックと共に名前を呼ぶ。

「レイン」
「デンジ君」

開け放たれた窓から入ってくる風が、カーテンと、ベッドから上体を起こしているレインの髪をゆるりと撫でている。風が運んでくるのは、穏やかな波の音。レインの隣に体を滑り込ませながら、DVDをベッド脇のテーブルに置いた。

「また、波の音を聴かせていたのか」
「ええ」

お腹を慈しむように撫でながら、笑う。

「デンジ君は波の音を子守歌に育ったんでしょう?だから、この子にも聞いて欲しいなって思ったの。私やデンジ君が大好きな、ナギサの海の音を」
「ああ。そうだな」
「それに」
「?」
「今の私には、それくらいしか出来ないから」

レインが申し訳なさそうに笑うのには、理由があった。
産前休暇に入ったレインは、働かないぶん家の仕事や赤ちゃんを迎える準備を頑張る、と意気込んでいたが、本人のやる気とは裏腹に、前回の健診で自宅安静指示を出されてしまった。相変わらず貧血ぎみであることと、お腹が少々張るという状態が診断の理由、らしい。
どういうことか分からなかったオレに、レインの担当の先生が、今張りが強くなってしまうと赤ちゃんが産まれてしまうかもしれない、と説明したところでオレは事の重大さを理解した。予定日までまだ一ヶ月以上ある。産まれてしまうには早すぎるし、ということはまだ赤ちゃんが十分に育っていない恐れもあるのだ。
自宅安静ということで、基本的に風呂とトイレ以外は横になっていなければならないらしい。そして、張り止めの薬を飲むこと。家事も必要最低限に。それがレインに出された宿題だった。

「デンジ君。お仕事頑張ってくれてるのに、帰ってからも洗濯やお片付けをお願いしてしまって、本当に……」

次の言葉が予想出来たので、軽くデコピンして黙らせた。

「謝るつもりなら要らないからな」

ハッ、と目を見開いたレインは、次に目を細めて。

「本当に、ありがとう」

オレが欲しかった言葉を紡いだ。
そう、それでいいのだ。今、レインは薬を飲みながら、お腹の中の赤ちゃんを頑張って育てている。それ以上に大変な仕事はきっとない。それにくわえ、調子がいいときに夕食を作ってくれていたり、赤ちゃんの洋服の水通し、スタイなどを手作りしているようだし、これ以上求めるものはなにもない。
とはいえ、家の中にこもりっぱなしも参ってしまうだろうから、次の健診のときには自宅安静が解除されたらいい、とは思う。

「それにしても、あれだけぺたんこだったレインの腹がここまで大きくなるとはなー」
「この子が元気に育っている証よ」
「あと、胸も」
「で、デンジ君……!」
「ははっ。予定日まであと一月ちょっとくらいだよな。あー……いよいよだな」
「どうかしたの?」
「なんか、緊張してきた」
「ふふっ。変なの」
「だって、オレが父親になるんだろ?実感がまだ湧かない」
「じゃあ、手を貸して……これでも湧かない?」

レインの手がオレの手を、命が宿っている場所に導いた。すると、まるで触れられるのを待っていたとでもいうように、ぐにゃり、とそこが波打った。

「「蹴った!」」

目を合わせて、笑う。実感が湧かないなんて、悪いことを言ってしまった。すでにここにはもう一つの命があり、オレ達は三人で過ごしているというのに。

「ねぇ。早く会いたいね」

ああ。早く会って、その笑顔を見てみたい。
返事の代わりにその命ごと、レインを優しく抱き締めた。今日DVDは必要なかったかもしれない。今こうして、レインともう一つの命のことを話す時間は、きっと今だけの特別な時間だから。





2018.7.26

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