深海の沈黙

 空気の味、風の感触、植物の匂い、あたたかい陽射し。何もかもが懐かしくて、思わず涙が零れかけた。
 帰ってきた。わたしは、本当に、太陽の下に帰ってきたのだ。
 涙を払うために一度海に潜り、浜辺を目指して泳ぐ。シャインは、あの海辺の街にいるだろうか。ちゃんと会えるだろうか。会えなくても、会えるまで探すだけだ。
 島が焼かれたあの日から十年近く経っている。わたしはチョンチーからランターンに進化したし、シャインだってきっと美しい大人の女性に成長しているに違いない。
 姿かたちが変わってしまったわたしのことを、シャインはわからないかもしれない。でも、わたしはシャインがどんな姿になっていようと見付けられる自信がある。
 だから、どれほど時間がかかったとしても、きっとまた、会える。
 きっと、また、昔のように、一緒に。

 夢のようなことを考えながら浮上する。海面に顔を出して、目を疑った。
 真っ白な浜辺に、イーブイを連れた一人の女性が立っている。アイスブルーの長い髪は背中の真ん中辺りで切り揃えられている。前髪も目にかかるかかからないかの長さで同様に切り揃えられており、髪と同じ色をした目はまん丸で少し垂れている。
 変わっているところを探せと言われるほうが難しいくらい、シャインは昔の面影を残したまま大人になっていた。やっと、会えた。
 感激のあまりに、うまく声を出せないでいると、シャインは目を細めて微笑みかけてくれた。

『こんにちは』
「あ、あの」
『綺麗……あなた、とっても綺麗ね。星が出る前のお空の色みたい』

 想定内だ。やはり、シャインはわたしが誰かわからないらしい。
 わたしは、シャインに助けられたチョンチーだよ。シャインのことを追いかけてここまで来たんだよ。わたし、ランターンに進化したんだよ。これからは、わたしがシャインのことを守るからね。
 言いたいことはたくさんあるのに、口の中が渇いてうまく言葉にならない。
 ――ジャリッ。砂浜を踏みしめる音が聞こえた。
 シャインの背後に、一人の男性が近付いてくるのが見える。太陽のような色をした金の髪と、海の色をした瞳の男性は、歩みを止めずに口を開いた。

『レイン』

 レイン。その言葉に、シャインはパッと花が咲いたように嬉しそうに笑って、振り返った。

『デンジ君!』
『何をしているんだ?』
『あのね、ランターンとお話をしていたの』
『ランターン? ナギサの海にいるなんて珍しいな。野生か?』
『たぶん。ねえ、見て。この子、とっても綺麗な子なの』

 シャインと、彼女が『デンジ君』と呼ぶ男性との会話を、呆然と聞いていた。わたしがシャインと離れて十年近く経つ。シャインに、わたしの知らない知り合いがいるとしてもなんら不思議ではない。
 わたしが衝撃を受けているのは、そこではなくて。

「あの」
『なぁに?』
「あなたの、名前、は」
『あ、ごめんなさい。名乗るのがまだだったわね。私はレイン。こっちは幼馴染みのデンジ君。この太陽の街、ナギサシティに住んでいるの。ねえ、ランターン。よかったら、私たちとお友達になって欲しいな』

 シャインがとても嬉しそうに笑っている。彼女の腕の中では、イーブイが興味深げにわたしのことを覗き込んでいる。彼女の隣では『デンジ君』が穏やかに笑っている。
 その、完成された輪が、酷く遠く感じた。
 全てを察した。シャインが過去を忘れているのか、それとも全て捨ててしまっているのか、現段階でわたしにはわからない。確かなことは、今シャインはレインとして生きているということだ。幸福に包まれて、笑っているということだ。
 シャインの笑顔を守るために、わたしはどう答えるべきか。答えは明確だった。
 呼び親しんだシャインという名前と『お兄ちゃん』たちの存在を含めた、楽しかった思い出を封じ込め、今の彼女を受け入れる。
 これはきっと、わたしへの罰だ。弱く臆病で何もできなかった、あの頃のわたしへの罰。彼女の思い出の中にわたしがいなくても、これが神様から与えられた罰ならば甘んじて受けよう。
 でも、その代わり。

「もちろん。よろしく。レイン」

 もう二度と、彼女から何も奪わせない。何があろうと、この決意だけは、譲らない。



2014.03.06


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