深海の光

 もう、どうなってしまっても良いと本気で思っていた。流れに身を任せ、たゆたい、沈み、辿り着く先がどこでも構わないと思っていた。
 もう、辛い思いは、したくなかったのに。
 暗闇に沈んでいた意識が浮上してきた。体中の至るところが痛い。
 どうやら、わたしは死に損なったらしい。

 目覚めたわたしは、全く知らない場所にいた。ここはどこだろう。わたしは海の底に沈んでいったはずなのに。
 十センチほど水が張られた、丸みを帯びた長方形の箱のようなものの中に、わたしはいる。高さはわたしの体二つ分より少し高いくらいだ。
 そう広くはない箱の中から、上をぼんやり見上げる。見上げたそこに青空はなく、長方形に切り取られた無機質で真っ白な空がある。
 もしかしたら、わたしは人間に捕まってしまったのではないか。それならそれで、良いか。一度は死を覚悟した身だ。もう、どうにでもなれば良い。
 でも、痛いのはイヤだなぁ。
 そんなことを考えていると、突然、箱の中を覗き込んできた二つの目と視線が合った。やっぱり、人間だ。海の中から見上げた海面のような薄いブルーの目が、わたしをじっと見ている。
 人間のことは詳しくないけれど、船の上にいた人間とは違う性別だと思う。恐らくメスだし、だいぶん幼い。ポケモンでいうなら、わたしとあまり変わらない年齢のような気がする。
 とりあえず、良かったと思うべきかもしれない。幼い非力な人間ならば、酷いことをされてもそこまで体が痛くなることはないかもしれない。
 この子は、わたしをいったいどうするつもりだろうか。
 人間の少女は、まん丸に開いた目でわたしを凝視していたけれど、やがてその青にはみるみるうちに水がたまっていった。どうして、目に水なんてたまるのだろう。

『よかっ、た。起きた。生きてる。ごめんね。私の波導じゃ、あなたの怪我を治してあげられないの。パパもママもお仕事でいないけれど、今、お兄ちゃんを呼んだから、もう少しだけ、痛いの、我慢してね』

 時々、言葉を詰まらせながら少女は言った。さらに『居心地はどう? お水があったほうがいいと思ってここに連れてきたけれど、お水がなくても大丈夫ならあたたかいお布団のほうがいい?』と聞いてきたので、お布団がどういうものか
わからなかったわたしは体を横に揺らした。
 どうやら、少女は『波導』というものでわたしのケガを治そうとしてくれているらしい。最初に会った人間にはあんなに痛いことをされたのに、どうしてだろう。人間というものは全て同じではないのだろうか。
 わたしが不思議そうに見上げていても、少女の目からは水がぽろぽろ零れて止まらない。

「ここは、どこ? わたし、海の中にいたはずなのに」
『あのね、ここは私のおうちのお風呂なの。海に住んでいる私のお友達のポケモンたちがね、怪我をしているあなたを浜辺まで連れてきてくれたのよ。助けてあげて欲しい、って』
「あなたの目から出ているのは、なに?」
『涙のこと?』
「涙、というの」
『そうだよ。あなたを助けてあげられないのが悔しくて、でもあなたが目覚めてくれてほっとしたから……涙が止まらないの』
「そ、う」

 さっきから、わたしは驚いてばかりだ。
 わたしはポケモンから嫌われる存在だと思っていたのに、助けてくれるポケモンもいる。
 人間はポケモンを傷付けるものだと思っていたけれど、心配してくれる人間もいる。
 そして、明らかに違う種族であるポケモンと話すことができる人間がいる、なんて。

「あたたはわたしの言葉がわかるのね」
『ええ』
「不思議。わたしに痛いことをした人間には、わたしの言葉は通じなかったのに」
『!』
「いくら、痛いって叫んでも、止めてくれなかったから」
『……』
「どうして、わたしはあんなことをされたのだろう」
『それは……きっと、あなたの体の色がとっても綺麗だから、自分のものにしたいと思ったのね。その人たちは』

 綺麗、という聞き慣れない言葉を理解するのに少し時間がかかった。
 綺麗とは、わたしが海の中から見た光のカーテンのようなものをいうはずなのに、この少女はわたしのことを綺麗と言った。
 ケイコウオからは変と言われたこの体の色を、綺麗と言ってくれた。
 綺麗なのは、あなただ。わたしのことを綺麗と言い、泣きながら笑うあなたが、とても。

『ねぇ、あなたはチョンチーよね。私の名前はシャインっていうの。よろしくね』

 この少女――シャインとの出逢いは、わたしが深海で求めてやまなかったもの、そのものだった。



2013.10.22


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