深海の孤独

 夜空に散らばっている星はとても孤独だ。命を燃やしてあんなに美しく夜空を飾っているのに、たいていの星は真っ暗で何もない空間にただ独りぽっかりと浮いているだけだ。
  それは、まるで深海をたゆたうこととよく似ている。
  太陽の光が届かない、暗く冷たい海の底で、孤独に苛まれながら、命が果てるまで輝く。
 わたしも、ずっと独りだと思っていた。誰にも知られず闇の中で生まれて、ひっそりと死んでしまうのだと思っていた。
 ――光に、出会うまでは。

 わたしは、闇の中で人知れずひっそりと生まれ落ちた。殻を破ってこの世に生まれたことを認識するまでにかなりの時間を要した。体に何かが触れる感触がしたことと空腹を覚えたからだ。卵の中も外も真っ暗だったから、視界だけでは生を受けたことが判別つかなかったのだ。
 卵の外は存外に居心地がよかった。卵の中にいたときのように、体中を何かに包まれていてふわふわする。卵の中にいたときのように暖かくはないけれど、この感覚はとても落ち着いた。
 自分の体の一部が輝くことを知ったわたしは、その光で周りを照らして食べ物や寝る場所を見つけながら日々を過ごした。

 わたしは何も知らなかった。自分が誰なのか、ここがどこなのか、何も知らなかった。それを教えてくれるはずの存在すら、いなかったのだ。だから、何も考えずにただその日その日を消費していくしかなかった。
 自分で照らしていないときの視界は相も変わらず真っ暗で、時折、自分が起きているのか眠っているのか、それすら
わからなくなる。恐らくわたしにも備わっているのであろう聴覚というものを、わたしは生まれてから一度も使ったことがない。喋る相手がいないのだから、自分の声すら聞いたことがない。

 変わらない日々。変わらないわたし。これからも、ずっと?

 あるとき、ふと不安になった。わたしはこのままずっと独りきりで生きていくのだろうか、と。寧ろ、この世界にはわたし以外に生きているものがいるのだろうか、と。
 時折、息が出来なくなる程に苦しくなることがある。
 この世界は暗い。どこまでも、どこまでも、果てしなく暗い。わたしが輝くことを止めれば視界はすぐに闇に塗り潰されてしまう。
 独りで輝き続ける事に疲れてしまった。誰にも知られずに生まれて誰にも知られずに死んでいく生に、果たして意味はあるのだろうか。
 わたしは、何のためにこの世界に生まれたのだろうか。

 一年、二年、三年と年月が過ぎていく感覚すら、当時独りきりだったわたしにはわからなかった。

 ある日、胸に強い孤独と焦燥感が押し寄せてきた。慣れているはずの暗闇が、とても恐ろしい怪物のように見える。大きな口を開けて、わたしを食らおうと迫ってくるようにも感じる。
 このままじゃ、イヤだ。
 闇の底を蹴って、闇を掻き分ける。わたしがいる世界は、前も後ろも、右も左も、下にも何もなかったけれど、果てしなく続いている上には何かがあるかもしれない。この真っ暗な闇を切り裂く何かが、待っているかもしれない。その一心で、わたしは泳いだ。どこまでも、どこまでも続く闇を、ひたすら泳いだ。

 いったい、何時間そうやって泳いでいただろう。手足は千切れてしまいそうだし、先を照らす明かりは徐々に弱まってきた。何度も、もう止めてしまおうと思った。諦めて、暗闇へ沈んでしまおうと思った。
 それでも、わたしが諦めなかったのは、この目に映る景色が色付いてきたからだ。漆黒だった暗闇は徐々に薄まり、わたしが初めて見る色に変わりつつある。体を包むこの温度は少しずつ上昇しているようだ。他にも、上へ上へと進むに従って変わっていくものがたくさんあって、わたしにとっては全てが新鮮だった。
 だから、まだ頑張れる。この先に広がっている世界は、きっとわたしの世界を変えてくれる。
 少なくとも、半日は泳ぎ続けていたと思う。辺りにはもはや闇の気配すら存在しない。頭上には真っ白な光のカーテンが揺れて、真っ青な世界をキラキラ輝かせている。この光のお陰で、わたしは初めて自分の姿を認識することができた。短い手足は鮮やかな水色で、ライトをよく見ると明るい緑色をしている。
 わたしと同じ姿の誰かが、この世界にいるといいな。岩に体を横たえて一休みしながら、わたしは期待に胸を膨らませた。きっと、この世界はキラキラと輝きに満ちているはずなのだ。

「ねぇママ! あの子、チョンチーかな?」

 それは、わたしの聴覚が初めて働いた瞬間だった。
 初めて、わたし以外の誰かに出会うことができた。深い青色の尻尾をベールのように揺らしながら、その子――ケイコウオはわたしをじっと見ている。チョンチー、と呼ばれた。それはわたしのことだろうか。わたしは、チョンチーと言うのだろうか。

「あ、あの……」

 初めて、声というものを発した。うまく届いているだろうか。ちゃんと、聞こえているだろうか。

「その体どうしたの? 変な色!」
「え……」
「こらっ! なんてことを言うの!」

 どこからか泳いできたネオラントが、ケイコウオを咎める。きっと、親子なのだろうと思った。でも、それよりも、気になっているのは。

「でも、あの子の体の色は水色だよ? ピカピカだって緑色だし! お友達のチョンチーの体は青色だし、ピカピカは明るい黄色だよ?」
「それは、あの色はあの子の個性なのよ。そんなことを言わないの……あ、ごめんなさいね。気にしないでね」

 ネオラントはそう言ったけれど、わたしと目を合わせようとしない。余所余所しいというか、早くわたしから離れたいと思っているような、そんな雰囲気が伝わっている。
 でも、わたしには聞きたいことがたくさんあった。拙い言葉でしか伝えることができないけれど、答えて欲しい。

「あの、ここは、どこ、ですか? わたし、ここ、来たばかりで」
「ああ……普通、チョンチーはこの辺の海には住んでいないものね。ここはシンオウ地方の西にあるミオシティ周辺の海よ……パパやママとはぐれたのかしら」

 わたしは、わたしがいるこの世界が海だということを初めて知った。

「いえ、わたし、生まれてから、ずっと、独りで」
「変な色だからパパとママに置いて行かれたんだ!」
「いい加減にしなさい! あ、ごめんなさいね。じゃあ、私たちはこれで……ああ、一つだけ気をつけたほうがいいわ。貴方は、海面から顔を出してはダメよ。人間に見付かったら……」

 どんどん、ネオラントの声が遠のいていく。何も考えられない。考えたくないと、脳が拒絶している。
 いつの間にか、ケイコウオとネオラントはいなくなっていて、またわたしは独りぼっちになっていた。でも、わたしはその場を動けなかった。
 わたしは、普通とは違うのだ。ずっと暗い場所にいたせいなのか、生まれたときからそうなのかはわからないけれど、きっと後者だ。もしかしたら父さんと母さんは、わたしが卵だったころからわたしが普通じゃないことを知っていたのかもしれない。だから、卵だったわたしを、捨てたのかもしれない。
 わたしは、生まれる前から独りだったのだ。
 でも、まだ、だ。まだ、諦めない。あの光の、先。キラキラした光のカーテンの向こうなら、きっと、わたしを受け入れてくれる世界があるはず。その世界がどんなに小さくても構わない。誰かと一緒に、幸せに、生きてみたい。もう、暗いところで独りぼっちは、イヤだ。
 ライトを点滅させながら、さらに上を目指す。わたしはここにいるよ。誰でもいいから見付けて欲しい。そんな願いを込めながら、チカチカ、チカチカと、ありったけの光を集めて放つ。

 そしてとうとう、わたしは光のカーテンの向こう側の世界へ顔を出したのだ。

 飛び込んできたのは、今までいた青い世界とはまた違う青色だった。その青色の所々に白くてふわふわしたものが浮かんでいる。そして、一際強い光の塊が、青の真ん中で燦々と輝いている。
 見える景色も、空気の味も、何もかもが違う世界にわたしは高揚した。ここでなら、きっと、素敵な出会いが待っている。きっと、きっと。

 海を横切りながら周りの景色をよく観察した。上の方に広がる青を横切るように、見た事もない生き物が飛んでいる。海の青と頭上の青の間には土が固められた場所が存在していて、そこにも生き物が住んでいるようだ。
 飛んでいる生き物──キャモメたちの話をよく聞いてみると、色んな単語が飛び込んできてその意味を知った。空。太陽。陸。木。花。船。ポケモン。人間。本当に初めて聞く単語ばかりで、わたしはその言葉を聞き逃さないように一つ一つ丁寧に吸収していった。
 海面から飛び出して、本当によかった。この世界は光で満ちていてとても明るい。ここなら、きっと。

「いたっ」

 思わず声が出てしまった。何か小さくて固いものが、わたしにぶつかったのだ。大きな影がわたしの体に覆い被さる。さっき初めて覚えた、船というものがわたしの傍に近寄ってくる。
 船には生き物が乗っていた。わたしやネオラントのようなポケモンとは違う生き物。人間、だ。人間は手のひらで小石を弄びながらわたしの方をニヤニヤと眺めている。

(おい! 見ろよ! 色違いのチョンチーとは珍しい!)
(こりゃ、コレクターに高値で売れるぞ! 捕まえろ!)

 初めて出会った人間は何を話しているのか意味がよくわからなかったけれど、本能が言っている。ここにいては危険だ、と。
 わたしは船に背を向けて、全力で泳いだ。しかし、大きな黒い影がわたしの上を通り過ぎて中に留まった。キャモメの進化系の、ペリッパーというポケモンだった。

(おい! チョンチーって言ったらでんきタイプだろう? ペリッパーで大丈夫なのか?)
(大丈夫だろう。見たところレベルは低そうだしな。ペリッパー、エアスラッシュ!)

 ペリッパーが大きく羽ばたいた次の瞬間、見えない何かがわたしの体を切り裂いた。なにこれ。いたい。いたいよ。
 そのとき、わたしはネオラントが言っていたことを思い出した。人間に見付かったら、どうなるのか。あのときはよく聞いていなかったけれど、ネオラントが言っていたのはこういうことだったのだ。

(おい、ちょっとやり過ぎじゃないのか?)
(まあ、あれだけ弱らせられたらすぐに捕まるだろ……あ! 逃げるぞ! モンスターボールはどうした!?)
(え? おまえが持っているんじゃなかったのか?)
(持ってねーよ! おまえが最初に捕まえるって言ったんだから、普通おまえが持っていると思うだろ!)

 船の上で人間達が言い争いを始めた隙をついて、わたしは海の中へと逃げ込んだ。結局、海の外にもわたしの居場所はなかったのだ。
 体の力をふっと抜いてみると、光がどんどん遠のいていく。あんなに憧れていたのに、今では視界に入れる事すら億劫だ。
 これから、わたしはいったいどうなるのだろう。
 どうにでもなればいい、と思った。人間に捕まるのもいい。このまま闇の底に沈んでいくのもいい。ああ、でも、その前にこの体が朽ちてしまう方が先かもしれない。全身が、とても痛い。
 これっきり目覚めないかもしれないけれど、わたしはそっと目を閉じて光を遮った。

 もう、光はいらない。



2013.09.25


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