渚のメモリー
約半年間というイッシュ地方の旅を終えたオレたちは、無事にシンオウ地方へと帰ってきた。オーバはそのまま実家に戻ると言ってオレたちと別れた。オレとレインはというと、馴染みの店で飯を食った後に、ポケモンセンターにポケモンたちを預け、オレの家に向かった。
オレが家に来ないかと誘ったのだが、レインは元々そうするつもりだったという。なんでも、洗濯とか使用していなかった家の掃除などをするつもりで、『母さん』には戻る日を遅く伝えていたらしい。本当に、よくできた彼女だ。
家に着いてからは、まずレインから先に風呂に入ってもらった。本当は一緒に入りたかったが、旅の疲れを一人でゆっくり癒したいだろうし、オレもオレで一人になり心の準備をする時間が欲しかったから、別々に入ることにしたのだ。
レインが風呂に入っている間、旅行バッグの整理をしようとしたが、お守りのように忍ばせていた四角い箱を開いたり閉じたりジッと見つめたりしているうちにレインが風呂から出てきたので、それを慌ててジャケットのポケットに隠して、レインと入れ代わりに風呂へと向かった。
「……あぶな」
脱衣所に入り、ドアにもたれ掛かって大きく息を吐いた。正面にある洗面台の鏡には、何とも言えない情けない表情をしたオレが映っている。オーバに見られたら指を指されて笑い転げられそうだ。
口から心臓が出てきてしまうのではないかと思うほど、オレは緊張している。不思議だ。ジムリーダー試験を受けるときでさえ緊張することはなかったのに、好きな女にこれを渡すだけなのに、何でこんなに緊張しなきゃならないんだ。
風呂には浸からずにシャワーだけを浴びたら、頭が冷静になってきたのと同時に、疑問が浮かんできた。
Tシャツと短パンに着替えて歯を磨きながら、鏡に映った自分の顔をぼーっと見つめて自問する。イッシュリーグを制覇したら、あれを渡してレインに言おうと決めていたことがあるのだが、それが叶わなかった今、果たして本当に実行していいのだろうかと。
とりあえず、今日これを渡すのは止めておこう。雰囲気も何もない格好で渡すのもあれだしな、うん。また後日、どこかレストランにでも連れて行って、そのときにしよう。先延ばしにして一時的な逃げだとわかっていたが、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
自室に行くと、すでにレインがベッドメイキングをしてくれていたようで、旅立つ前に片付けたシーツなどが綺麗に整えられていた。レインはというと、窓を開けてそこから海を眺めている。
心地よい波の音と、穏やかな風が窓から流れ込んでくる。それらに誘われるようにして窓辺に行き、後ろからレインを包み込むように抱きしめた。オレが部屋に入ってきたことをわかっていたのか、レインは驚かずにオレの手の上に自分のそれを重ねた。
「不思議ね」
「何が?」
「イッシュ地方でもいろんな街の海を見てきたのに、それぞれが違っていて、やっぱりナギサシティの海が一番好きだって思ったの。海の色とか、波の音とか、風の匂いとか、そういう違いもあるけれど、やっぱりこの海にはたくさんの想い出があるから」
表情はわからないが、レインの声色から、今までの想い出一つ一つを懐古しているのだとわかった。レインの想い出と、オレの想い出が完全に一致するとは限らないが、それでも、オレたちの始まりはこのナギサの海だった。
オレたちが出会ったのは運命でも何でもない、偶然だった。あのとき、オレが窓から外を見ていなかったら? 海に漂うレインを見付けられなかったら? そう考えるとゾッとする。しかし、運命ではなくても、偶然という奇跡が重なって必然となり、今のオレたちがあるのだと思っている。
「この窓から、オレは溺れているレインを見付けたんだよ」
「この部屋のこの窓から?」
「ああ。早いよな。いろんなことがあったよな。レインが何も言わないで旅立ったときは、一人あの砂浜で泣いたもんだ」
「……えっ!?」
「冗談だ」
あながち冗談ではない。あの場にオーバがいなかったらたぶん泣いてた。
レインは、オレのことを恩人だとか、太陽のようだとか、いなくなったらどうしたらいいかわからないとか言うけれど、それはオレのほうだ。それを、あのときほど深く思い知ったときはない。
抱きしめる力を強めると、レインが不思議そうにオレを見上げてきたので、唇に触れるだけのキスをした。それだけで、とても幸せそうに笑うレインを見て、オレは短パンのポケットに入れた四角い箱の存在を思い出した。
「でも、全部デンジ君がいてくれたからよ。離れていたけれど、旅している間もデンジ君の存在に何度も助けられた。イッシュ地方での旅だって、一人で旅していた頃よりずっと楽しかった。いつも傍にいてくれて本当にありがとう。これからもずっと一緒にいて欲しいな」
「っ」
「デンジ君?」
「……ありがとう、はオレのセリフだろ」
「え?」
目標としていたイッシュリーグ制覇は叶わなかった上に、Tシャツに短パンなんてロマンスの欠片もない格好だけど、そんなことより、イッシュ地方を旅する前から言いたかった言葉が、今にも溢れ出してしまおうとしている。
一生に一度のことだし、きちんとした想い出になるような形で言いたかったけど、レインはきっとそんなことを気にしないだろう。レインにはオレしかいないし、オレにはレインしかいない。それだけで十分じゃないか。
レインの肩を掴んで振り返らせ、オレと向き合う形にさせる。
「ずっと一緒にいよう。レイン」
「デンジ、君?」
オレが差し出した四角い箱に入っている指輪を見たレインは、口元を手で覆い隠してこれでもかというくらい目を見開いて、オレを見上げた。言葉にする前からもう泣きそうになってる、そんなところも愛しくて仕方がない。
不思議だな。あんなに緊張していて、どんな言葉で伝えようかと必死に考えていたのに、それは驚くほど簡単に、呆気ないほどシンプルな言葉として、溢れ出た。
「結婚しよう」
オレたちを繋げてくれたこの海から、新しい物語が始まっていく。今までも、これからも、ずっと二人一緒に。
2012.09.08