純粋な想いが辿り着く先

 璃月の夜は、モンドの夜に比べて少しだけ明るく感じる。遠くに見える石門の灯りだけでなく、望舒旅館のまわりも幻想的な提灯で彩られ、夜空からは月光が降り注いでいるのだから、そう感じるのかもしれない。望舒旅館の上階から璃月の景色をぼうっと眺めながら、ミカはそんなことを考えていた。
 そんなとき、背後に人の気配を感じて振り向いた瞬間。夜景以上に明るいカナリーの笑顔が、すぐそこにあった。

「ミーカくんっ」
「わっ! カナちゃん!」
「こんなところにひとりでいるなんて、どうしたの?」
「えっと……少しだけ、疲れたのかもしれない」
「そっか。私がここにいても大丈夫?」
「も、もちろん!」

 ありがとう、と笑みを零してカナリーはミカの隣に並んだ。
 両国詩歌握手歓談会に参加するために、モンドを離れ璃月を訪れること三日目。今日が大会の最終日で、明日の朝からモンドへ帰ることになっているが、慣れない場所と多くの人との関わりに、ミカは少なからず疲労していた。本来ならひとりになって頭を空っぽにしたいところだ。
 しかし、隣にいるのがカナリーだと、ひとりでいるときのように、いやそれ以上に自然体になることができる気がする。肩の力がふっと抜けて、話題を気にすることなく心地よい沈黙に身を任せ、ただ一緒にいるという時間をゆるやかに過ごすことができる。ミカにとってカナリーはそんな存在だった。

「ミカくんは両国詩歌握手歓談会に参加するだけじゃなくて、西風騎士団として会場の設営や警備をやってくれたもんね。お疲れさま!」
「ありがとう。カナちゃんも本当にお疲れ様。みなさんが安心して大会を楽しめるように、冒険者協会の依頼で石門付近の魔物を倒して回っていたよね」
「うん。依頼を受けてモンドの外に出るなんて、滅多にないことだから嬉しかったんだ! 大会にも参加できたし、璃月の人とも仲良くなれちゃった! 夜は望舒旅館にお泊りして、同じ部屋のノエルちゃんやディオナちゃんと遅くまでお喋りしてすっごく楽しかったし!」

 うん、うん、と相槌を打ちながら、クルクルと変わるカナリー表情を見つめる。カナリーの声は聴いていて心地良い。弾むような喋り方が明るさを分けてくれるようだし、元気になる。
 ふと、カナリーはお喋りをピタリと止めて、ミカの顔を覗き込んだ。

「やっぱり、ちょっと元気ないね?」
「……そう、かな?」
「カリロエーさんたちのこと?」

 カリロエー――両国詩歌握手歓談会で出会った女性。その正体は『清泉の心』という物語の元になった純水精霊だった。かつて、泉の畔で出会った少年――フィンチから向けられた感情と、精霊と人間という種族の差から来る別れを恐れた彼女は、あるとき友人だった彼の前から姿を消した。あれから何十年という時を経て、フィンチから向けられた感情の名をようやく知ることができたカリロエーは、ミカたちの後押しもあってフィンチと再会することができた。しかし、精霊としての力が弱まりつつあったカリロエーはフィンチと再会したあと、姿を消した。彼女の力を凝縮した一滴の雫と、当時交わすことができなかった誓いと愛を込めた贈り物――口づけを彼に残して。

「今更だけれど、あれでよかったのかなって思ったんだ。カリロエーさんとフィンチおじいさんは再会することができたけれど、でも、きっともう会えない」

 フィンチが生きている間に、きっとふたりはもう出会うことはできない。その事実が小さな棘のように、ミカの心に刺さっていた。

「カリロエーさんに、フィンチおじいさんに会ってほしいと言ったのは僕だ。だから、ふたりが再会したことでもし少しでも悲しい気持ちにさせてしまったのなら……僕の責任だ」
「カリロエーさんを説得したときのミカくん、すごく必死だったもんね」
「うん。……最初は会うべきじゃないのかもしれないとも思った。だって、精霊と人間とでは流れる時間の速さが違うから、再会したとしても悲しみを生むだけなんじゃないかって……そんな考え、悲観的過ぎたって今でも思うけれど」
「そんなことないよ」
「カナちゃん?」
「だってそれは、ふたりが傷つくことを心配してくれたミカくんの優しさだもん。私はミカくんみたいに冷静に考えるのが苦手だから、そんなミカくんにいつも助けられているんだよ」
「……ありがとう」
「でも、そう考えていたのに、カリロエーさんに言った言葉は真逆だった。ミカくんの中で風向きが変わったの?」

 再会することで心残りを作ってしまうくらいなら、想い出は美しいまま心の中にしまっておくべきなのではないかと、そう考えていた。しかし、実際にミカの口から出た言葉は全く違っていた。
 どうかフィンチおじいさんと会ってほしい。彼が昔話をするとき、そこに悲しみや後悔は一切なく、ただただ、愛おしそうに目を細めて在りし日を懐古していた。そして今も、当時と変わらず水辺に佇み何かを待っているのだ……と。

「もしも」
「うん」
「もしも僕がフィンチおじいさんだったら……パイモンさんが仰ったように、やっぱりもう一度会いたくなるだろうって思ったんだ。例え一瞬でもいい。それから先は二度と会えなくてもいい。だって、何十年も想い出の場所で待つくらい好きな人なんだから」

 また会えるかもわからない人を待ち続ける切なさを、何十年と心の中に飼っていたのなら。再会という甘美な夢のあとに別れを突き付けられたとしても、きっと。刹那だけでも邂逅できたという事実があるだけで、最期の瞬間まで幸福でいられるのだと今なら思える。そう思ったからこそ、カリロエーの背中を押したのだ。

「フィンチおじいちゃん、最後に言ってたでしょ? 彼女は遠くに行っていない。泉の中に、夢の中に、彼女はいるんだって。二度とふたりはお互いの姿を見ることはできないかもしれないけど、でもふたりはずっと一緒だよ。だから、ミカくん元気出して! ミカくんはなにも間違ってない!」
「カナちゃん……うん。ありがとう」
「それに、フィンチおじいちゃんに共感して切なくなっちゃったのなら大丈夫! 私たちはずっと一緒だもん! 今までも、これからも!」

 そうだ。ミカがこうして感傷に浸っていたのは、フィンチとカリロエーの心境を想像してしまったからだけではない。自らをフィンチに、そして、大切な人を――カナリーをカリロエーに重ねて、もし自分たちがふたりと同じ状況だったら、と想像してしまったからだった。
 自分はフィンチのように笑顔で別れを告げられるだろうか。カナリーを独り遺すことに、未練などないと言い切れるだろうか。もう会えない寂しさに、耐えられるのだろうか。
 己を省みたり、人の様子を観察したり、人の心情を汲み取ったりする力が、ミカは人一倍強い。だからときには、必要以上に慎重になって、自らを追い詰めてしまう。でも、氷のようにかたくなった心を、あたたかな優しい風がいつも溶かしてくれる。
 ミカとカナリーは同じ時を一緒に歩んできた。今までも、これからも。だからなにも、心配することはないのだと、カナリーの笑顔に気づかされた。

「でも、ロマンチックだったよねぇ。何十年越しの恋が実ってふたりは……えへへ。私ドキドキしちゃった!」
「そ、そうだね」
「ロマンチックといえば、話は変わるけど知ってる? 望舒旅館は恋人と一緒に月を眺める絶好のスポットなんだって! モンドで言う星拾いの崖みたいなものなのかな?」
「う、うん。そうかも、しれないね」

 明るい話題へと話を切り替えようとしているカナリーとは対称的に、ミカの脳内は努めて冷静になろうとしていた。しかしそれは到底無理な話で、ミカの脳はその意図を読み取ろうとフル回転していた。

(もしかしてこれは……キ、キスをしてほしいってこと!?)

 別れの瞬間、何十年越しに想いを結んだフィンチとカリロエーは口づけを交わしていた。直視しては悪いと視線を落としてはいたが、それでも気になって盗み見てしまったふたりは、幸せに満ち足りた表情を浮かべていた。
 フィンチとカリロエーと、ミカとカナリーは、想いあっている者同士という点においては同じだ。さらに言うと、ミカたちは恋人同士のスキンシップに興味を持つことが必然ともいえる年齢である。
 ミカの告白をきっかけに幼馴染みから両想いの関係になったふたりだが、今まで以上の触れ合いは未だにない。もしもカナリーが、手を繋いだり抱き合ったりとする以上の関係を望んでいるのであれば、勇気を見せるのが男の役目というものではないだろうか。

「あ、あの、カナちゃん」
「なぁに? ミカくん」

 穏やかな声が名前を呼ぶ。まるで自分の名前てはないように、柔らかい響きで。音を紡いだ唇に視線を向ければ、緊張と期待で隆起した喉が上下に動いた。
 手すりに添えられていたカナリーの手に、自らのそれをミカが重ねようとしたそのとき。

「ミカさま、カナリーちゃん」

 背後から名前を呼ばれ、思わずその手を引っ込めた。ミカとカナリーが同時に振り替えると、そこにはノエルの姿があった。

「行秋さまたちとお話しして、今からみなさんでお疲れさま会を開こうということになったのですが……」

 ノエルはミカとカナリーを交互に見比べたあと、やってしまったというように口元を押さえた。

「もしかして、お邪魔してしまいましたか……?」
「え、えっ!? な、なんのことでしょう!? 僕たちも今すぐに向かいます。ねっ!? カナちゃん!」
「うんっ! 美味しいものお腹いっぱい食べてたくさんお話しよっ!」
「で、では僕は先に行きます! なにか準備をすることがあったらいけませんから!」

 カナリーたちに背を向けて、足早に階段を下りていきながら、ミカは頬を手で仰いだ。動揺で声が裏返ってしまったミカとは違い、カナリーは普段通りだ。もしかしたら、カナリーの言葉に深い意味はなく、自分の早とちりだったのかもしれない。だとしたら、ノエルが来てくれてよかった。来てくれなかったら、もしかしたら、あのまま唇を重ねていたかもしれない。

(……考えただけでのぼせそうだ)

 いつかまた勇気を出すことができたとき、カナリーは誓いと愛のこもった贈り物を受け取ってくれるだろうか。ミカの幸福な悩みは、しばらく消えそうにもなかった。

 一方、そのころカナリーはというと。

「……キス、するのかと思っちゃった」

 少しだけ残念そうに唇の輪郭をなぞり、頬を恋色に染める。
 ミカとカナリー。幼馴染みを卒業したばかりのふたりの仲が進展するのは、まだ先のようである。



2023.10.24
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