rainy day

 しと、しと、しと。時折、頬に触れる程度の小雨が静かに降っている。出かけるおきにレインが巻いてくれたマフラーに鼻までをうずめ、ポケットに手を突っ込んで足早に帰路を急ぐ。「傘を持っていかなくても大丈夫?」とレインは気にしてくれたが、大丈夫だと頷いた。そこまで大降りにはならないと天気予報が言っていたし、それに、雨は嫌いじゃないから。
 海の様子でも見て帰ろうか。思い立ったが吉日だ。歩く方角を北に変える。といっても、オレの家からは浜辺が見えるので、方向的にはさほど変わらなかったりする。
 砂浜は雨を含んで少し湿っており、いつものようなサクサクとした感触はなかった。空は灰色。海もいつものように鮮やかな色をしていない。でも、こんな雨の中の海もやっぱり好きだ。

「あ」

 一人でいるのにもかかわらず、思わず声が漏れた。
 浜辺の脇にある崖の斜面に、一輪の花が咲いている。白い六枚の花弁を持った花だ。名前は、確か。

「……レインリリー」

 腰につけているエレキブルのモンスターボールがカタカタと揺れた。オレと同じように、この花を見て、こいつも思い出したのかもしれない。

 ――あの日も、雨が降っていた。


 * * *


「笑わないよなぁ、レイン」

 オレがそうぼやけば、エレキッドは同意を示すようにうんうんと頷いた。
 海で溺れていたレインという――といってもオレが名付けた女の子を拾って、一週間が経つ。
 最初の三日間、彼女は昏睡状態だった。医者いわく「何らかの精神的なダメージがあったのかもしれません」とのことだった。
 四日目は目を覚まして、オレの手を握って「ありがとう」と絞り出すような声で囁き、声を押し殺して泣いた。
 五日目、オレは会いに行けなかったので詳しくは知らないが、彼女は何かに怯える素振りを見せていたらしい。
 その正体を知ったのが六日目。オレは雨と海と暗闇が怖いという彼女に『レイン』という名前を付けた。
 七日目。つまり今日は、会わせることを約束していたエレキッドを連れて行った。こいつはレインが怖がる闇を照らしてくれる光を持つから、レインも仲良くなれるのではと思ったのだ。しかし、電気をパチパチ鳴らしてみせるエレキッドを見て、レインは「すごいね」と言っていたが、笑いはしなかった。
 落胆する気持ちを隠しながら、オレは早めに病室を出た。どうしたらレインは笑うのか、考えたかったから。
 オレにだって笑いたくない気分のときはあるが、レインが抱えている問題は全くの別物だ。まだ、あの小さな体の中にはたくさんの恐怖や不安が詰まっているのだろう。だから、笑いたくても笑えないのではないだろうか。楽しい気持ちや嬉しい気持ちも、暗い海の底のような感情たちに押し潰されてしまっているのではないだろうか。
 どうにかしてやりたい。笑わせてやりたいと、子供ながらに思った。捨てられているポケモンを拾って親になったような、まるでそんな感覚を抱いていた。

「どうしたら笑うかな、あいつ」

 レインの笑顔を見てみたい。ただ、それだけだった。

「なぁ、明日オーバを連れて行くのはどうだと思う? あの真っ赤なアフロを見たらだいたいのやつは最初は吹き出す……ん?」

 昨日降った雨で湿っている浜辺をぐるぐると歩きながら考えを巡らせていたが、ふと足を止める。崖の斜辺、オレの身長の倍より少し高いくらいの高さに、白色の花が咲いているのを見つけたのだ。
 確か、名前はレインリリーという花だ。雨が降ると一斉に咲くからその名がついたとされている、特に珍しくもなんともない花。
 その名前と特徴から、レインのことを思い出すのは必然だった。

「あれ見せたら、笑うかな」

 子供が考える単純なことだったけれど、なぜかあの花を持って笑うレインの姿が想像できたのだ。
 それから約一時間、オレは垂直に近い斜面と格闘し続けた。身長は同世代の子供より頭一つ分抜けているが、お世辞にも運動神経がいいと言えないことくらい自覚している。崖の凸凹に手や足をかけて必死によじ登ってみたり、助走をつけてジャンプしてみたり、浜辺に転がっていた流木を台にしたりしてみたが、全て失敗に終わった。
 ポツポツと小雨が降り出したころ、流木を台にしたエレキッドの上にオレが乗り、さらにはジャンプして崖にしがみつき、必死の思いで数十センチよじ登った末、右手をうんと伸ばしその花に触れることができた。
 足場が崩れるのと同時に花を掴み、オレはそのまま急落下。砂に頭から突っ込んだ。でも、花は無事だった。ちなみに、エレキッドには全力で謝って、帰ったらお気に入りのポフィンを与えてやるということで機嫌を取った。
 エレキッドをモンスターボールに戻し、オレは来た道を駆け戻った。灯台の麓にある病院が見えてくると、鼓動がさらに激しくなった。
 ロビーを走り抜けたとき「病院の中を走るんじゃないよ!」というこの病院の『母さん』の声が聞こえてきて、出会ったばかりのころの弱り切っていたレインの姿を思い出した。同じように弱っている人たちがここにはたくさんいるのだ。走りを早歩きに切り替えて、オレはレインの病室を目指した。
 真っ白なドアの前で大きく深呼吸して息を整えた。だって、息が上がっていたらかっこ悪いだろ? 道端に咲いていたから見舞いに摘んできた、ってさり気無いくらいに渡したほうがいいだろう?
 コン、コン、コン、と三回ノックした。「はい」というレインのか細い声を確認すると、オレはドアを右にスライドさせた。

「……え? デンジ、くん?」
「よ」
「あれ……? 帰ったんじゃ、ない、の……?」
「帰る途中でこれ見つけたから、レインに渡そうと思って」

 ん、とレインリリーの花を差し出す。レインはそれを両手で受け取ると、少しだけ目を細めた。

「きれい……それに、海の匂いがする」
「ああ。海の近くの小道に咲いていたからな」
「そう……ありがとう、デンジくん」

 そう言って、レインは顔を伏せた。なんだ、これでも笑わないのかよ。
 内心、肩を落としていたときだった。囀るような声がオレの耳に届いてきて、思わず目を見開いた。
 再び顔を上げたレインが――笑っていたからだ。
 左手を口元にあてて、確かにクスクスと笑っている。頬が微かに桃色に染まるくらいに、笑っている。本当に、レインが笑っている。

「レイン……!」
「ご、ごめん、ね? ふふっ。でも、デンジくん、砂まみれだから、つい」
「……あ!」

 オレは顔にこびりついていた砂を全力で払った。あとからあの『母さん』に叱られるかもしれないが、それどころじゃなかった。
 かっこ悪いことこの上ない。花が綺麗だからとか、そういうことで笑ったんじゃなくて、オレの格好を見て笑っていたってことか。

「ふふっ……ふふふ」
「レイン、笑いすぎ」
「ご、ごめんなさい……だって、すごく、嬉しかったの」
「嬉しい?」
「うん。今日はデンジくん、早く帰っちゃって寂しいなって思っていて……でも、また戻ってきてくれて。今日、二回もお話できただけでも嬉しいのに、こんなに綺麗なお花までもらえて……デンジくんが砂まみれになるくらい、一生懸命になって摘んでくれたんだなって思ったら、すごく嬉しくて……あれ?」
「……あー、もう。笑うか泣くかどっちかにしろよな」

 照れ隠しのため服の袖でワザと乱暴に涙を拭ってやると、レインはまたクスクスと笑った。
 初めて見たレインの笑顔は、想像していたものよりずっと明るくて柔らかく、まるでひっそりと咲いた花のようだったんだ。


 * * *


「よっ、と」

 子供のころより身長がだいぶん伸びた今では、軽くジャンプしただけで花を摘むことができた。早く帰ろう。オレは上機嫌で帰路に戻った。
 家の扉を開けてこの白色を見せれば、驚きつつも花のように笑うレインの笑顔が見られるだろう。そして、あのときと同じようにきっとオレも照れ笑いをしてしまうのだ。
 こうやってオレたちは、小さなことさえも幸せに変えて一緒に生きていく。二度と、レインが雨を怖がることはないのだろう。




BGM「rainy day/ayumi hamasaki」

2012.01.13


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