隣り合う死と生と


 穏やかな風が頬を撫で、心地よい陽だまりが体を包む。胸いっぱいに空気を吸い込むと、緑の清涼な香りが鼻孔を満たした。

「ここが黒曜の原野……気持ちがいいところですね」
「はい。草木が生い茂っていて自然豊かなので、きのみや薬草がたくさん採れるのです。わたしたちもよく訪れるのですよ」
「イチョウ商会は自分たちでも商品になるものを採りに行くんですね」
「例えばきのみだと、どのような場所に生っているのか。産地の品質はどうか。現地に行ってみないとわからないこともありますから」
「なるほど……」
「ギンガ団の調査隊は、大志坂に設けられている原野ベースを拠点としてポケモンの調査や捕獲を行っています。そこに行けば、彼らに会えるはずです」
「わかりました。行きましょう」
「はい。ここに生息しているポケモンは比較的穏やかですが、中には気性が荒いポケモンもいるので気を付けていきましょう」

 そう言うと、ルテアさんは緩やかな坂を登り始めた。私も「よいしょっと」とリュックを背負い直して、彼女の後について行く。
 ルテアさんは華奢な身体つきにも関わらず、大きなリュックを背負って、さらにはリオルをその上に乗せ、顔色一つ変えずに歩いている。背筋も足腰も真っ直ぐだ。旅をして商いを営んでいるというだけあり、制服の下は存外鍛え上げられているのかもしれない。
 大志坂を登り切ると、そこは平地になっていた。休息を取るための小さなテントと、工作をするための台のようなもの、そして大きな道具箱が設置されている。原野ベースの中心では、小さな焚き火がパチパチと音を立てながら燃えている。
 焚き火を囲んでいるのは白衣を着た男性と、昨日会ったペリーラさんと同じ赤い色の服を着た警備隊の男性、それから青い服を着た子供が二人いる。また、既視感に襲われる。

「コウキ君……? ヒカリ、ちゃん……?」

 ホック帽が特徴的な男の子と、三角巾が特徴的な女の子は、二人とも赤いマフラーを巻いていてどこか忍者のような出で立ちにも見える。年齢は十五歳前後といったところかしら。
 ギンガ団の調査隊とは、ポケモンの生態調査や捕獲をするための部隊だと聞いている。まさか、こんな子供たちが、そんな危険な部隊に所属しているなんて思わなかった。
 ルテアさんはリュックを降ろすと中からモンスターボールが入った包みを取り出し、白衣の男性に声をかけた。

「ラベン博士、こんにちは」
「おや、イチョウ商会のルテアさん! もしかして、モンスターボールを持ってきてくれたのですか?」
「はい。ご依頼の品を配達にまいりました」
「助かりました! 調査を始めて二日目。いい感じに調査が進んでいたのに、早くもモンスターボールを切らしてしまって困っていたのです。さあ、テルくん。ショウくん。これでまた、どんどんポケモンを捕まえてください!」
「よーし! これでまた調査を進められるぞ! ショウも、ほら」
「ありがとうございます」

 ラベン博士、テル君、ショウちゃん。新しい名前を脳に刻んでいると、隣でルテアさんが思い出したように言葉を零す。

「そういえば……」
「どうしたんですか?」
「空の裂け目から落ちてきた人というのが、彼女になります」
「! この子が……」

 この子――ショウちゃんは見たところ、ヒスイ地方に住んでいる人と何ら変わらない雰囲気を持っているように見える。服装が浮いているわけでも、顔立ちが異国の造形というわけでもない。
 それでも、もしショウちゃんが本当に空の裂け目から落ちてきた……つまりは、空の裂け目の向こう側にある世界から来たのだとしたら、話を聞くことで新しい情報がもらえるかもしれない。

「レインさん、わたしたちも資材を調達して帰りましょう。モンスターボールの材料になるぼんぐりやたまいしの在庫が少なくなってきていましたから」
「は、はい」
「ラベン博士。テルさん、ショウさん。わたしたちも近くを行ったり来たりしますがよろしいでしょうか?」
「もちろんです!」
「構いませんよ」
「よかった。調査の邪魔にならないようにしますのでご安心くださいね。では、レインさん。こちらへ」
「はい」

 どうやってショウちゃんに話しかけようかと考えている間に、ルテアさんは大志坂を下り始めてしまった。その後を慌てて追いかける。
 原野をしばらく進むと、赤い鉱物の結晶のようなものが地面から突き出ている場所にたどり着いた。それは間隔を空けていくつも並んでいる。

「ここではたまいしを採ることができます。レインさんはポケモンを連れていますから、イーブイにお願いして鉱床を砕いてもらって、たまいしを集めてください」
「イーブイに……? イーブイ、聞いていた?」

 私がモンスターボールを開くと、出てきたイーブイが「任せて!」とでもいうように大きな声で鳴いた。そして次の瞬間、イーブイは前足を使って鉱床を砕いたのだ。

「すごい……!」
「お上手です。では、わたしはあちらでぼんぐりを採っていますね。行きましょう、リオル」
「ワウ!」

 ルテアさんはリオルを肩に乗せて、岩の向こう側まで行ってしまった。
 私とイーブイは言われたとおり、たまいし集めに専念した。岩や崖沿いに鉱床が集まっていることに気付いてからは、岩の陰まで入念に探すことを心がけた。その成果が現れて巾着袋は満タンになったし、他よりも輝きが強い鉱床からはみずのいしを採ることができた。

「だいぶ集まってきたわね」
「ブイー」
「ほら、みずのいしも手に入ったし、ルテアさんに報告を……あ」

 立ち止まって、視線の先にいる少女――ショウちゃんを視界の中心に捉える。彼女は油断して背中を向けているブイゼル相手に忍び寄り、モンスターボールを投げ付けた。不意を突かれたブイゼルはモンスターボールに入ると、一度だけそれを小さく揺らして、その後出てくることはなかった。
 ショウちゃんに話しかけるなら、今だ。
 私はルテアさんがいる方向を一瞥した。ルテアさんはまだぼんぐりを拾っている。少しくらいここを離れても……大丈夫、よね?
 私はイーブイに声をかけると、一緒にショウちゃんのところまで走っていった。彼女は図鑑のようなものに視線を落としていたけれど、私たちの足音に気付いて顔を上げてくれた。

「あっ、イチョウ商会の……」
「ショウちゃん、と呼んでもいいかしら?」
「はい」
「私はレイン。……時空の歪みに巻き込まれて、別の時空からこのヒスイに迷い込んだみたいなの」
「!」

 ショウちゃんの顔付きが、変わった。やっぱり、空の裂け目から落ちてきたもいうのは本当だったのだ。

「ショウちゃんも、ヒスイじゃないところからここに来たのでしょう?」
「はい。でも、あたしは時空の歪みじゃなくて空から落ちてきたみたいなんです。それ以前の記憶もよく思い出せなくて……」
「……私と同じだわ」

 朧げな記憶に縋り付き、知らない土地と知らない人に囲まれながら、その日を生き延びる。そんな毎日は心を消耗させていく。ヒスイ地方に来てまだ二日しか経っていない私でも不安なのだから、まだ子供といえる年齢の彼女はなおさら寂しさを募らせているかもしれない。

「不安じゃない?」
「……大丈夫、って言ったら嘘になります。ムラにはまだ馴染めきれていないし、そもそもあまり歓迎されていないみたいなんです」
「……」
「でも、居場所が欲しかったら自分で作らなきゃ。だから、あたしは目の前にある自分ができること……ポケモンの調査と捕獲を精一杯頑張りたいんです」
「……強いのね、ショウちゃん」
「レインさんはイチョウ商会に助けてもらったんですか?」
「ええ。でも、私は」

 そのとき、ショウちゃんの目が鋭く光った。

「え?」
「しゃがんでください!」
「っ」

 ショウちゃんに押し込まれるようにして草むらに身を隠す。すると、近くを大きな影が横切った。燃え盛る鬣は赤く熱く、額から突き出た角は鋭く太い。おそらく、ギャロップだ。おそらくというのは、高さが普通のギャロップの二倍近くはあり、私が知っているギャロップと比べると大きさが規格外だったからだ。
 まさか、あのギャロップは。

「あれは……!?」
「オヤブンギャロップ、ですね」
「すごく大きいし、レベルが高そうだわ。私のイーブイでも勝てるかどうか」
「ここを離れましょう。音を立てないように、ゆっくり……」
「ええ……」

 ギャロップからは目を離さないように、草むらの中を一歩、また一歩と後ずさる。目をそらしてはいけない。その瞬間に、命を散らすことになるかもしれない。
 一歩、また一歩、離れていく。もう少しでテリトリーから脱出できる。そう思って、半ば安心仕掛けていた。
 しかし次の瞬間に、炎が宿ったように赤い双眼と、目が合った。けたたましい咆哮が響き、空気がビリビリと震える。

「見付かった……っ!」
「走りましょう!」
「無理よ。ギャロップの俊足には敵わないわ」
「だったら!」
「戦うしかないわね。イーブイ!」
「ヒノアラシ!」

 私のイーブイの隣にヒノアラシが現れた。ショウちゃんの手持ちだ。二体一がフェアじゃない、なんてことを言っている場合ではない。
 気を抜いたら、間違いなく、命を落とす。

「イーブイ、でんこうせっか!」
「ヒノアラシ、ころがる!」

 地を蹴ったイーブイが目にも留まらぬ速さで攻撃を仕掛けるも、ギャロップはびくともしない。ヒノアラシが繰り出したほのおタイプにとって弱点となる技さえも、後ろ足で蹴り返してしまった。
 こちらが態勢を崩したのを、ギャロップは見逃さなかった。バチリ、バチリ。火花を弾くような高い音が、ギャロップの体に纏わり付く。でも、それは炎ではなく、電気だった。
 ギャロップは電気を帯びた体を使って、容赦なくイーブイとヒノアラシに突進してきた。「「避けて!」」私とショウちゃんの声が重なる。イーブイとヒノアラシが辛うじて避けると、ギャロップが通ったところに焦げた跡ができていた。

「今のはワイルドボルト!? 野生のポケモンがこんなに強力な技を覚えている……なん……て……」

 どうしてかしら。瞼が勝手に降りてくる。こんなところで眠ってはダメ。間違いなく、やられてしまう。
 もしかして、これは。

「っ、さいみ、んじゅつ……?」
「レインさん!!」

 野生のポケモンは、まずトレーナーの手持ちのポケモンと勝負をするものだと思っていた。でも、それは私の世界での暗黙のルール。トレーナーを先に襲うことで、ポケモンへの指示を断つ。合理的な戦い方だと、頭の片隅で思った。
 思考が上手く働かない。ショウちゃんに支えられながら立っているのがやっとだ。せめて、ショウちゃんだけでも、逃げ、て……。

「レインさん」

 ――声が聞こえた。穏やかで、でも凛としている、まるで雨のような声だ。

「ルテア、さ、ん」

 ルテアさんとリオル、それから群青色の光を視認した瞬間に、私の意識は落ちてしまった。それは眠りに落ちたのか、それとも命を落としたのか、判別がつかないくらい限りなく死に近い感覚に、恐怖を覚えずにはいられなかった。



2022.03.10



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