愛よりも深く確かな形


 姿見の前で服を整える。今日から正式に、イチョウ商会の一員として仕事に同行させてらうことになるのだから、不備があってはいけない。

「……いってきます」

 掛けられた青い上着を撫でた私は、イーブイが入ったモンスターボールをポケットに忍ばせて、宿舎の外に出た。雲ひとつないすっきりとした快晴だ。
 イチョウ商会の荷車は、昨日と同じくギンガ団本部の脇に停まっていた。メンバー一人ひとりに指示を出しているギンナンさんの隣では、ルテアさんが品物を並べている。

「おはようございます。ギンナンさん、ルテアさん」
「おはよう」
「おはようございます、レインさん。よく眠れましたか?」
「はい」
「そうそう。昨日頂いたお洋服の中からこちらが出てきたのですが」
「これは……ボールシール……?」

 ルテアさんが差し出したのは紛れもなく私が住んでいた世界にあったもの――ボールシールだ。ヒスイ地方に来る前の私は、どうしてボールシールを手にしていたのかしら。ボールシールなんて、頻繁に使うものでもないのに。
 見慣れないものに目敏く気付いたギンナンさんが、ルテアさんの隣から顔を覗かせる。

「ん? ボールシールというのは?」
「はい。モンスターボールにこうして貼り付けて、ポケモンを呼び出すと……はい!」
「!」
「まあ」

 モンスターボールからイーブイが飛び出したのと同時に、水の泡が弾けて太陽の光を受けてキラキラと輝く。ギンナンさんは私の手からモンスターボールを掴み取ると、興味深そうに目を細めて様々な角度から観察している。

「これはすごい。一体どういう仕組みだ?」
「レインさんがいた世界にはこんな道具があるのですね」
「はい。私がいた世界では人とポケモンが当たり前のように助け合いながら暮らしていて、その暮らしを楽しんだり豊かにするためにいろんな道具があります。ボールシールもそのひとつなんですよ」

 自分でも驚くほどなめらかに言葉が出てきた。「思い出す」というよりは「なくなっていたものが突然頭の中に現れる」という感覚に近い。何の前触れもなく、朧げな記憶は少しずつ輪郭を取り戻してきている。

「思い出してきている記憶もあるようですね」
「はい。……でも、一番思い出したいことは、まだ……」

 とても大切な人がいた気がするのに、その人のことだけ何一つ思い出せやしない。そこだけぽっかり空洞になっていて、冷たい風が吹き抜けるような空虚さが私の心を沈ませる。
 私は首を振って寂しさを振り払おうとした。まだヒスイでの生活は始まったばかりなのに、弱気になってはダメ。自分にできることを、やろう。そうすれば、いつかきっと何かに辿り着ける。そう、信じなきゃ。

「あ、あの。昨日、私が捕まえたこのイーブイは……」
「きみが捕まえたのだからきみが傍に置いておくといい」
「! ありがとうございます」

 ギンナンさんは微かに笑って、イーブイのモンスターボールを返してくれた。よかった。まだ私たちの関係が始まって一日も経過していないけれど、一晩一緒に眠ったことでイーブイに対して一気に愛情が生まれてしまったのだ。
 不確かだけど、きっとヒスイに来る前の私もポケモンに囲まれて暮らしていたのだろうな。ポケモンがいない生活なんて考えられないもの。

「では、さっそくお仕事をお教えしますね」
「は、はい」
「とはいっても、大切な目玉商品はギンナンさんが担当しますし、恒常品はツイリさんに販売を任せています」
「はじめまして、ツイリです! よろしくね」
「よろしくお願いします、レインです」

 短い金髪の女性――ツイリさんは人懐っこい笑顔で挨拶をしてくれた。愛想の良さと親しみやすさは物を売る上で一つの武器になるのだろうな、と思っていると、ルテアさんは幅が一メートルほどある薄い箱を差し出した。

「なので、レインさんには配達をお願いしたいのですが」
「配達?」
「安心してください。配達といってもまずはムラの中です。こちらを写真屋のゲンゾウさんに届けていただけますか?」
「はい! 頑張ります!」
「良い返事だ」
「ふふふ。写真屋は表門の傍にありますよ。お代は頂いていますので、届けるだけで大丈夫ですから」
「わかりました。いってきます」
「ブイブイ!」
「ええ。一緒に行きましょう」

 ルテアさんから受け取った箱は、大きさの割にはとても軽くて私でも簡単に運ぶことができそうだった。
 方向を東に向けて、表門を目指す。散髪屋や呉服店を通り過ぎ、さらに先に写真屋はあった。本当に表門から目と鼻の先だった。

「ここが写真屋……あ」

 写真屋には外から見えるようにサンプルが飾られていた。こっちの写真に写っているのはデンボクさん。そして反対側に飾られた写真に写っているのは……。

「ウォロさんの写真が飾ってあるわ。ふふ、トゲピーと一緒ね。楽しそう……」

 そこまで紡いだ私は、また、あの感覚に襲われた。

「シロナ、さん……?」

 初めて会ったときは、状況が状況だったからその考えに至る時間がなかった。でも、改めて見てみると……似ている、と思った。思わず口から名前が零れ落ちてしまうほどに。

「また……」
「ブイ?」
「……ううん、大丈夫よ。中に入りましょう」

 気を取り直して、写真屋の戸を引く。中に入ると、すぐに撮影用の広い部屋が広がっていた。壁は背景幕で覆われている。
 機材の準備をしている男性がいる。きっと、彼がゲンゾウさんに違いない。

「おはようございます。イチョウ商会です。頼まれていた品物をお届けに参りました」
「おお、イチョウ商会の。待っていたぞ」
「どうぞ」
「どれどれ……うむ! 立派な額縁だな!」
「よかった。では、またよろしくお願いします。私はこれで……」
「ちょっと待った!」
「え?」

 帰ろうとしていた私を引き止めたゲンゾウさんの視線は、私ではなくイーブイに注がれていた。

「連れているイーブイはひょっとすると、オヤブンではないか?」
「はい。そうですが……」
「なんと! オヤブンポケモンを連れているとは珍しい! 写真を撮って表に飾っておけば、客寄せになるかもしれんなぁ」
「は、はぁ」
「ということで、頼む! きみとイーブイの写真を一枚撮らせてはくれんか?」
「え? でも、ギンナンさんの許可をいただかないと……」
「以前もイチョウ商会の若いのが撮っていったから大丈夫だろう!」
「……確かに。表で見ました」
「イチョウ商会の宣伝にもなるぞ? な?」
「……わかりました。一枚だけなら」
「恩に着る! ささ、そこに立って」
「ここですか?」
「そして、こう! 可憐に、それでいて凛とした姿勢で」
「ええ……?」

 ヒスイに来る前の記憶は曖昧だけれど、モデルとかそういう類の職業でなかったことだけはわかる。カメラを向けられただけで動きが固くなり、緊張してしまう。

「ブイッ!」
「きゃっ」

 何を思ったのか、イーブイは後ろ足で立ち上がり私に抱きついてきた。完全な不意打ちだった。必死になって抱きとめると、悪戯が成功した子供のような屈託のない笑顔で高く鳴く。

「おお! いい写真が撮れたぞ!」
「……本当ですか?」
「出来上がったら表に飾っておくからぜひ見ておくれ!」
「ふふ。はい。では、失礼します」

 今度こそ、私は写真屋を出た。ポケモンを連れて歩くことはそれだけで注目を集めることだと悟った私は、イーブイをモンスターボールの中に戻した。
 配達……というよりは、初めてのお使いという感覚だったけれど、なにはともあれ任務を無事達成することができて胸を撫で下ろす。
 イチョウ商会の荷車まで戻ると、そこにはツイリさんしかいなかった。

「おかえりなさい! 迷わず無事に帰ってこられたみたいだね」
「さすがに一本道ですから。……ツイリさん、ギンナンさんとルテアさんは?」
「二人なら荷車の中で在庫の確認をしてますよ」
「ありがとうございます」

 報告と、次の仕事の指示をもらわないと。
 私は何の気なしに荷車の裏側に回り、入り口をそっと持ち上げた。

「あの……」

 それ以上の言葉を発することができないまま、私はその場に立ち尽くしてしまった。
 ツイリさんが言ったとおり、そこにはギンナンさんとルテアさんがいた。ギンナンさんが在庫の数を数え、ルテアさんがそれを書き留めている。ただそれだけ。ただそれだけなのに、私は二人から目が離せなかった。
 誰の目にも触れていない場所で二人が纏っている空気が、あまりにも穏やかで、あまりにも心地よさそうだったから。向け合う視線の柔らかさには、相手への愛しさと信頼が滲んでいる。
 そして何よりも、ルテアさんの表情が違う。いつも穏やかに微笑んでいるルテアさんだけれど、その表情はどんなときもほとんど変化がない。驚いたとき、野生のポケモンと対峙したとき、その表情は崩れることがなく逆に不安を覚えてしまうくらいだ。
 でも、今のルテアさんの表情はとても柔らかく、感情の色が宿っていた。ギンナンさんを深く愛し、心を許していることが伝わってくる。そんなルテアさんの隣りにいるギンナンさんも、また同じ。いつもは無表情に近いクールな表情を崩さないのに、ルテアさんに対する愛おしさを秘めきれていない。
 夫婦としても、仕事のパートナーとしても、ギンナンさんとルテアさんは誰にも入り込めない強い絆で結ばれている。そんな気がして、すごく素敵だと思った。

「ワンッ!」
「きゃっ!? あ、ルテアさんのリオル……」
「あら。レインさん、お帰りだったのですね。お疲れ様でした」
「あ、は、はい」

 足元にいたリオルに気付かなかった私は飛び上がってしまった。少しだけ気まずさを覚えながら荷車の中に入る。ギンナンさんとルテアさんを纏う空気感は、いつもと同じものに戻ってしまった。

「届け物は無事に終わったようだね」
「はい」
「じゃあ、レインさんにはもう一つ届け物をお願いするとしよう」
「届け物?」
「ああ。場所は黒曜の原野。原野ベースにいるギンガ団の調査隊にモンスターボールを届けて欲しい」
「それは、コトブキムラの外ですか?」
「ああ。もちろん一人では行かせない。ルテアを同行させよう」
「ルテアさんを? でも、ムラの外はポケモンが飛び出してきて危険なんじゃ……」
「だからこそ、だ」
「え?」
「わたしは主に在庫管理やギンナンさんの補佐を行っていますが、元々は荷車を野生のポケモンや野盗から守るための護衛としてイチョウ商会に雇われたのです」
「ええ!? そう、なんですか?」
「本当だ。ルテアとリオルの力を見ただろう? 危険から身を守ったり、敵を退けたりすることに関してはルテアたちの右に出る者はいない」
「ふふふ。ギンナンさんったら、大袈裟ですよ」
「そんなことはないさ。旅をしていて、ルテアたちがいなかったら危なかった局面は多々あった。おれたちがこうして商いを営めているのは、間違いなくきみたちのお陰だ」
「……ありがとうございます」

 意外だった。こんなに華奢で物静かな女性が、まさか用心棒にも似た役割を務めていたなんて。
 ギンナンさんは、不安ではないのかしら。もし、私の愛する人が危険と隣り合わせで仕事をするのだとしたら、私は心配でどうにかなってしまうかもしれない。

「そこに、ポケモンに指示を出すことが上手いレインさんがいたら百人力ということさ」
「……わかりました。ルテアさん、よろしくお願いします」
「はい。リオルともどもよろしくお願いします」

 空いている場所に居座らせてもらっている私が何かを口にする権利はない。ギンナンさんが、イチョウ商会のリーダーが決めたのなら、それに従うだけ。
 私は先に荷車を出た。入り口を持ち上げて、その向こう側へ潜るとき、一瞬だけ視線を戻した。

「いってらっしゃい。気を付けて」
「はい。いってまいります」

 ルテアさんの頬に触れるギンナンさんを見て、私は自分の考えが間違っていたことを悟った。野生のポケモンたちが生きる世界に愛する妻を送り出すことが、不安なわけがないのだ。
 でも、それ以上の信頼があるから。ルテアさんの商人としての責任感と、ポケモンに対抗できる能力を信じているから。必ずここに帰ってくるという、確信があるから。だからあんなにも、愛おしさを言葉と表情と手のひらに乗せて、躊躇いもなく送り出すことができるのでしょう。



2022.03.03



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