最果ての名前に手を伸ばす


「……さん……レインさん……」

 夢の世界を意識が揺蕩う中で、私の名前を呼ぶ優しい声がした。お寝坊な私はいつもこうやって、誰かに起こされていた気がする。その声は今私の耳を撫でるものと違って、もっと低くて、海のように深かった気がするけれど。
 不透明な想い出に浸っていた私は、抱え込んでいた膝から顔を上げた。ルテアさんは相変わらず穏やかな微笑みを崩すことなく私を見つめている。

「目が覚めましたか?」
「ごめんなさい。私、ぐっすり眠ってしまって……!」
「いいのですよ。立てますか?」
「はい」

 ルテアさんに手を引かれて立ち上がり、青い上着を抱えて荷車の外へと向かう。入り口を開けると、燃え立つような夕焼けの空と、その下に広がっている景色に目を奪われた。街……町……村、そう、村だ。平門をくぐり抜けた先には、人々が暮らす小さな村が広がっていたのだ。

「ここは……」
「ここはコトブキムラ。ヒスイ地方より外から来た人たちが築き上げたムラです。わたしたちイチョウ商会も拠点を置かせてもらっています」
「コトブキムラ……」
「レインさん。コトブキムラを統率している団長に挨拶をしに行こう。おいで」
「は、はい!」

 私はギンナンさんの後をついて歩きながら、コトブキムラを観察した。
 建物のほとんどは木造で、屋根には瓦が使用されており、色によって区分けがされている。煙突がついている建物が多く、電気ではなく火を使って熱を発生させているということがわかる。少し離れたところには川が流れていて、水車が回る音が聞こえてくる。立ち並んでいる店の看板に書かれている文字は私が知るものと少し違う書体だけれど、読めないことはない。通行人が纏っているのはそのほとんどが和服だった。

「素敵なムラですね」
「ああ。これを寄せ集めの人間だけで一から作り上げたのだから恐れ入るよ。建物にはおれたちが見たことのない構造があって興味深い。……あれとかね」

 ギンナンさんが言う『あれ』とは、ムラの中でも特に立派な建物のことだ。赤煉瓦造りの庁舎のような建物の屋根にはコイキングの銅像と、連なった煙突が据え付けられている。塔屋は天守閣のように突き出していて、全体的に見ると和洋折衷といえる構造だ。

「和と洋が折り合わさっているように見えますね。あれはコイキングでしょうか。あっちの煙突は……?」
「外国のポケモンから着想を得たもの、と聞いている」
「そうなのですね。立派な建物……」
「ここはギンガ団本部」
「ギンガ団…?」
「ギンガ団は争いのない新天地を作るために、ヒスイ地方を開拓している団体だ。その拠点としてこのコトブキムラが作られたらしい。組織としての歴史はまだ浅いようだが、ムラの発展を見ると団長の統率力がわかるだろう」

 ギンガ団。どうしてかしら。聞き覚えがあるような、ないような。
 私がそれ以上の思考を紡ぐよりも先に、ギンナンさんはギンガ団本部の扉を開いた。中はどちらかというと洋に寄った内装で、床には絨毯が敷かれている。
 私たちが中に入ると、階段付近に立っていた赤い着物と笠を身に纏っている男性が話しかけてきた。

「ギンナンさん、こんにちは」
「こんにちは。デンボクさんはいますか?」
「ああ。上の団長室にいるよ」
「どーも」

 ギンナンさんは勝手知ったると言わんばかりに、ギンガ団本部の中を迷いなく進んでいく。すれ違う人たちからも特に不思議な視線を送られることはない。イチョウ商会とギンガ団の交友関係は、悪くはないということかしら。
 階段を登った先に、一際目立つ立派な造りの部屋があった。部屋の真ん中に置かれた重厚感のある机には一人の男性が座っている。私たちに気付くと、男性は顔を上げて立ち上がった。

「ナナカマド博士……?」

 思わず漏れ出した私の言葉は、口の中で溶けてなくなるほど小さかった。きっと、隣に立つギンナンさんの耳にも届いていない。どうしてその名前が出てきたのか、そしてその名前は誰なのか。わからないまま、会話は進む。

「イチョウ商会のギンナン殿。いかがなされたかな?」
「どーも。うちに新入りが入りましたので挨拶に来ました」

 ギンナンさんの視線に促され、私は姿勢を正して頭を下げた。

「はじめまして、レインと申します。今日からイチョウ商会でお世話になることになりました。よろしくお願いいたします」
「レイン。珍しい名だな」
「レインはヒスイ地方より外から来ましたので」
「……なるほどな。私はデンボク。ギンガ団の団長をしておる。ギンナン殿が迎え入れたのだ。コトブキムラに害をなす者でないのは確かだろう。ようこそ、コトブキムラへ。我々もきみを歓迎しよう」
「あ、ありがとうございます……!」
「確かギンナン殿と奥方が使っている宿舎の隣が空いておりましたな。そこを寝床として使うといいでしょう。管理者には私から話しておきます」
「ありがとうございます。助かります。では、公務中に失礼しました。レイン、行くよ」
「はい」

 迎え入れられた事実に安堵して表情が緩む。きっとそれも、このイチョウ商会の制服のお陰。むしろ、イチョウ商会のリーダーであるギンナンさんがコトブキムラに滞在するにあたって、彼らと築いた信頼関係の賜物と言えるのかもしれない。だとしたら、私はやっぱりギンナンさんたちに感謝して、恩を返さなければならない。
 本部を出て階段を降りると、その脇にイチョウ商会の荷車が停まっていた。さっきまではいなかった金髪の女性や黒肌の男性が、荷車から品物を降ろしたり中身を確認したりしている。イチョウ商会のメンバーはルテアさんやウォロさん以外にもいるみたいだ。
 ルテアさんが私たちに気付いて、にっこりと微笑む。

「おかえりなさい。ギンナンさん、レインさん」
「へえ。あんたが、ルテアが話していた新入りかい?」

 ルテアさんの正面には、この夕焼けのように燃えるような赤髪の女性が立っていた。身長は私はもちろん、ギンナンさんよりも、ウォロさんよりも大きい。腕や足は筋肉がついて引き締まっている。屈強な体付きとは裏腹に、髪型はミミロップを連想させる可愛らしさが見える。
 彼女の見た目のインパクトはもちろんだけれど、まるで真夏を思わせるようなカラッとした笑顔とおおらかな喋り方が、私の中の記憶の引き出しを開ける。

「……オーバ君?」

 また、だ。自然と知らない名前が口から零れ出る。今回は相手にも伝わってしまったようで、赤髪の女性は豪快に笑った。

「わたしはオーバなんて名前じゃないよ! 名前はペリーラ。ギンガ団で警備隊の隊長をしている、ルテアの友人さ! イチョウ商会は正式にこのムラの所属というわけではないから、直接どうこうできるわけじゃないけど、同じムラに住む者同士、何かあったら声をかけておくれ!」
「ありがとうございます、ペリーラさん。レインです。よろしくお願いいたします」
「おう、よろしく! 真面目で礼儀正しいいい子だね! それに、どことなく娘ちゃんに似ている気がするね」
「娘ちゃん……?」
「はい。わたしとギンナンさんの長女です。もう十五を迎えていますので、今は独り立ちしてシンジュ団に所属しています」
「! お子さんがいらっしゃったのですね」
「ええ。もうひとり男の子もいますが、こちらはコンゴウ団に所属しています」
「コンゴウ団とシンジュ団というのは……?」
「ヒスイ地方に存在する組織……いや、派閥と言えばいいのかね。時間という概念を大切にしている集団のことだよ」
「シンジュ団はコンゴウ団と対立している組織で、こちらはヒスイという土地でみんなで生きることを大切にしているようです」
「彼らはそれぞれシンオウ様という存在を信仰しているようでね。もっとも、それぞれ信仰しているシンオウ様は別の存在のようだが」
「シンオウ様……時間と……空間……?」

 私が住んでいたシンオウ地方の『シンオウ』と、ヒスイ地方で信仰されているシンオウ様の『シンオウ』は同じなのかしら。なんだか、一気に色んな情報が詰め込まれて、処理が、追い付かない。
 立ちくらみのような感覚に襲われて、足元が崩れる。でも私が倒れるよりも早く、伸びてきたペリーラさんの腕が体を支えてくれた。

「おっと。大丈夫かい?」
「はい。ありがとうございました。少しふらついてしまって……」
「今日はもうお休みになってください。イチョウ商会としての仕事は明日から教えますから」
「ルテア。ここは大丈夫だから、彼女を宿舎に案内してあげてくれ」
「はい」
「ありがとうございます。ギンナンさん、ルテアさん」
「では、行きましょうか。ペリーラさん、失礼しますね」
「ああ!」

 ルテアさんに支えられながら、私はギンガ団本部の前を横切る通りを進んだ。コトブキムラの片隅に立っている木造の建物まで案内され、その戸を引く。

「ここが宿舎です」

 外から連想される通り、中は時代劇に出てくるような古い造りだった。手前に土間があって、道具箱や水を溜めておくための壺、囲炉裏や流し台がある。奥には畳張りの居間があり、布団や鏡や箪笥が置かれている。

「使い勝手はわかりますか?」
「はい……なんとなく」
「レインさんが来た世界とは違うところもおありでしょうから、少し説明しておきますね。他に何かあったらすぐに来てくださいね。わたしもギンナンさんも、隣の宿舎にいますから」
「はい。何から何まで、本当にありがとうございました」

 ルテアさんは部屋の説明をした後に「また明日」と言って出ていってしまった。急に一人になった私はホッとしたやら心細いやらで、疲れがずっしりと伸し掛かってきたように感じた。

「これからどうなるのかしら……」

 ブーツを脱いで居間に上がり、青い上着をハンガーのようなものにかけると、布団に倒れ込む。布団よりも畳のいい香りが鼻先を擽る。
 このまま眠ってしまおうかしら。そう思ったけれど。

「っ、そうだわ」

 あることを思い出した私は、体を起こして制服のポケットに手を入れた。モンスターボールを取り出して、中に入っているイーブイを呼び出す。あのときは何も考えずに、イチョウ商会の荷物からモンスターボールを手に取って使ってしまったけれど、この子は私の手持ちということにしてもいいのかしら。
 心配事は明日ギンナンさんたちに確認するとして、私はつぶらな瞳で見上げてくるイーブイと視線を合わせた。

「やっぱり、私が覚えているイーブイとは違って格段に大きいわ。一メートル弱、くらいありそうね。他の種族も、オヤブンと呼ばれる個体はみんなこうなのかしら」

 もし、あのとき出くわしたのがイーブイではなく、例えばガブリアスのオヤブンだったら。私は今、この世にいなかったかもしれない。私自身が何者かもわからないまま、知らない世界で、誰にも知られないまま、人生に幕を下ろしていたかもしれない。そう考えると、ゾッとするどころの話ではない。
 早く、思い出さなくちゃ。早く、帰らなくちゃ。早く、早く、早く――。

「ブイ?」
「あ、ごめんなさい。私はレイン。今日からあなたのパートナーよ。よろしくね」
「ブイブイ!」
「ふふふ。よかった。仲良くなれそう。……ふわぁ……さっきまで眠っていたのに……もう眠くなってきちゃったわね……一緒に眠る?」
「イブイ!」

 エプロンを取って薄い布団に横になると、イーブイが私の隣で体を丸めてくれた。そのあたたかい体に顔を埋めると、睡魔はすぐに訪れた。
 明日のことはどうなるかわからない。でも、私はこの世界で生きなければならない。私の帰るべき場所に、いつか帰るために。今は思い出せない名前の持ち主を、もう一度、この声で呼ぶために。



2022.02.27



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