不透明な記憶を掻き集めて


 カタンカタンと打ち付けるような振動を背中に感じながら、私は目の前に腰を下ろした二人と向き合っていた。カイリキーが引いてくれている荷車の中は荷物が積まれていて、大人が三人入るには少し狭いけれど、知らない景色に気を取られて不安にならないようにという二人の気遣いからだった。

「おれはイチョウ商会のリーダー、ギンナン。こちらは妻のルテア。外で見張りをしているのはウォロだ」

 銀髪の男性――ギンナンさんは帽子を取って軽く頭を下げ、彼の紹介にあったルテアさんもそれに倣った。
 ギンナンさんとルテアさんが夫婦だと言われても、私は驚かなかった。二人は少し歳が離れているようにも見えるけれど、二人を纏う空気感や、互いに視線を送るときの眼差しの柔らかさを考えると、納得以外になかったのだ。
 私は正座を正して背筋を伸ばすと、深く頭を下げた。

「改めまして、危ないところを助けてくださってありがとうございました。私はレインといいます」
「レインさん。この辺りでは聞かない響きのお名前ですね。ヒスイ地方の外からいらっしゃったのでしょうか」
「ヒスイ……地方……!?」
「あら? わたし、何かおかしなことを言いましたか?」
「だって……私がいたのは……シンオウ地方のナギサシティで……」

 ルテアさんが口にした聞き慣れない場所の名前に動揺した以上に、私は自分自身の言葉に驚いていた。
 シンオウ地方のナギサシティ。確かに、私はそう言った。そこがどんな場所なのかはわからない。覚えて、いない。
 でも、自然と口にすることができたということは、記憶があやふやでも私自身の脳に、体に、声に、刻まれているということなのかもしれない。私が私の名前を始めから覚えていたように、自然と口にできた「シンオウ地方のナギサシティ」という場所が、きっと私がいたところ。帰るべき、場所だと。
 ギンナンさんは微かに片眉を釣り上げた。

「シンオウというのは、コンゴウ団やシンジュ団が信仰しているヒスイ地方に伝わっている神のような存在のことかな? ナギサシティという地名には覚えがないが……ルテアはどう思う?」
「はい。わたしたちイチョウ商会は様々な地方を渡り歩いて商いを営んでおりますが、そのような土地を訪れたことはなかったはずです」
「そんな……ナギサシティがこの世界には……ない……?」

 嘘だと言って欲しい。遠くても、世界の裏でもいいから、ナギサシティは存在するよと教えて欲しい。この世界に在るのであれば、私はいつか必ずそこに辿り着いてみせる。歩いてでも、這ってでも、どんな手を使っても。
 しかし、ルテアさんは残酷な真実を告げる。

「レインさん。あなたはとても遠くから来たのですね。それこそ、この世界のどこにも存在しない遠い場所から」

 たおやかで穏やかな微笑みなのに、なぜか背中が粟立った。手が震えてしまいそうになるのを誤魔化すために、膝の上で硬く握りしめた。
 ここは、私が知っている世界ではないのだ。私の出で立ちが浮いているのも、この手の中にあるモンスターボールが私の知っているそれとは違う材質なのも、この世界が私の知らない世界だということを裏付ける要因のように思える。

「……です」
「レインさん?」
「……帰りたい、です。私がいた場所に。私が帰るべき場所に。だって……必ず帰ってくると……約束したから……」

 『必ずここに……この太陽に愛された海の街と、――――のもとに帰ってくるわ』
 そう約束した相手は、一体誰だったのかしら。今はこれ以上のことを思い出せない。でも、帰らなければいけないということだけはわかる。きっと、約束をした誰かも、私の帰りを待っている。そんな気がする。
 ギンナンさんはしばらく考え込んだ後、思い出したように口を開いた。

「昨夜、群青の海岸で時空の歪みが発生していたらしいな」
「はい。そう伺っています」
「群青の海岸……? 時空の歪み……?」
「群青の海岸はこの辺りの地域一帯のことを指します」
「時空の歪みというのは、ヒスイ地方で度々見られる現象でね。遭遇すると見たことのないポケモンが突然現れたり、不思議な道具が落ちていたりすることがある」
「……それって」
「その名の通り、歪んだ時空……つまり過去や未来、あるいは他の世界から、ポケモンや道具がやって来ているのではないかと言われています」
「その歪みに人が巻き込まれてもおかしくはない。……きみのようにね」
「!」
「そういえば、時空の歪みとは少し違うが……つい最近、空の裂け目から人が落ちてきたようだね」
「シンジュ団にも一人、ヒスイ地方ではないどこかから来たというキャプテンがいらっしゃいましたね。その方もレインさんのように、自分の名前以外の記憶が朧げだそうです」
「……私の他にも前例があるんですね」

 空の裂け目とか、シンジュ団とか、キャプテンとか、意味が理解できない単語はいくつかあった。それでも、私が私の世界に帰るためには、その時空の歪みというものに遭遇する必要があるということだけはわかる。
 この方法だって仮説で、きっと確実ではない。だとしても、目の前に示された可能性に縋りたい。

「ギンナンさん、ルテアさん。その時空の歪みというのは……!」
「残念だけど、探す術はない。時空の歪みはいつ、どのようにして発生するのか誰も解き明かせていないのが現状だからね。偶然その場に居合わせない限り、遭遇するのは難しいだろう。発生の仕組みがわかっていれば、上手いこと珍しい道具を仕入れられるのだが」
「ふふふ。そうですね」
「そう……ですか……」

 私はわかりやすく肩を落としてしまった。時空の歪みの場所さえわかれば、どんな危険を冒してでも行ってみるつもりだったのに、神出鬼没するものを探すのは骨が折れる行為だ。
 目の前でルテアさんがギンナンさんの耳に唇を寄せ、何かを囁いている様子をぼんやりと眺めながら、私は途方に暮れてしまった。
 これから、どうしたらいいのだろう。私のことを誰も知らない場所で、たった一人で、どうやって元の世界に帰る方法を探したらいいのだろう。

「ねぇ、レインさん」

 名前を呼ばれて我に返った私は、焦点を目の前に戻した。ルテアさんは相変わらず微笑んでいたけれど、さっきまでの微笑みと比べて、少しだけ、温かい温度が宿っているような気がした。

「もしよかったら、わたしたちのお手伝いをしてもらえませんか?」
「えっ?」
「あなたのようにポケモンの知識と扱いに長けている人がいたら、仕入れや配達をするのにも安全です。イチョウ商会に所属していろんな場所に行けば、それだけ時空の歪みに遭遇する確率だって上がりますよ」
「……いいん、ですか?」
「ああ。……まあ、初期投資は必要だけど」
「私に差し出せるものなら……!」

 何も持たない私に差し出せるものなんて、あるのかしら。さっきゲットしたばかりのオヤブンと呼ばれたイーブイはここにいるけれど、私と一緒にいることを選んでくれたこの子を手放すことは……できない。
 しかし、ギンナンさんが提示したのは予想外の案だった。

「その服」
「服、ですか?」
「……女性が着ている服を、おれが触るわけにもいかないな。ルテア」
「はい」

 ルテアさんは「失礼しますね」と言って、私の隣に跪いてシースルーのワンピースの裾に触れた。私と同じ色をした視線はまるで鑑定でもするように、私が着ているものを吟味していた。

「とても美しく繊細な服ですね。今までいろんな地方を渡り歩いてきましたが、見たことのない生地ですし、この飾りは宝石でもないのに上等な輝きを放っています。とても貴重なものですよ」
「なるほど。……その服を対価に、おれたちはイチョウ商会の制服をきみに与える。これでどうだろう?」

 イチョウ商会の制服を与えられるということ。それは単に、イチョウ商会という団体の中に匿うというだけではなく、その一員として身分を保証するということだ。身に纏っている人がどの団体に所属しているか一目でわかる制服には、それだけの意味と価値と重みがある。
 私は改めて、深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

 出会ったばかりの人たちに自分の身柄を預けることに、不思議と躊躇いはなかった。生まれたばかりのポケモンが初めて目にしたものを親と慕うように、何の疑いもなく信じることができたのだ。
 

 * * *


 停められた荷車の中で、私は与えられた制服に袖を通した。イチョウ商会の制服は見た目通り温かく、薄着だった私にはそれが天からの恵みもののように思えてしまった。防水加工が施されたブーツも足に馴染んで歩きやすそうだ、と軽く足踏みをしながら確認する。
 私が「ギンナンさん、ルテアさん」と声をかけると、荷車の入り口が開いて二人が再び中へと入ってきた。

「どうでしょうか?」
「ええ。とても似合っていますよ。大きさも丁度いいですね」
「よかった。あ、これを……」

 私は丁寧に畳んだシースルーのワンピースとサンダルを差し出した。普段着とは思えないデザインをしているこの衣装は、記憶が飛んでしまう前の私にとって特別なものだったかもしれないけれど、背に腹は代えられない。
 衣装を受け取ったルテアさんは、私の腕の中に残っている青に視線を落とした。

「そちらの青い羽織物は?」
「! これは……っ、手放したくないんです。我儘でごめんなさい。……これは、とても大切なもののような気がするから」

 私の肩に掛けられていた青い上着。これは、どうしても、差し出せない。
 上着を抱きしめたまま視線を落としていた私の頭に、柔らかな何かが触れた。顔を上げると、同じ色の視線が優しく私のことを見つめ返してくれた。
 私の頭をもう一度撫でた後、ルテアさんはその視線をギンナンさんへと向けた。

「ギンナンさん」
「ああ。中に着ていた服だけで十分だ」
「ありがとうございます」
「レインさん、ずっと気を張っていて疲れたでしょう? わたしたちが拠点を置いているムラまでもう少しかかりますから、少しお休みになってくださいね」
「ありがとうございます、ルテアさん」
「わたしはウォロさんと見張りを交代してきます」
「ありがとう、ルテア。気を付けて」
「はい」

 ルテアさんが荷車から出ていくと、代わりにウォロさんが入ってきて私を見ると「お似合いですよ!」と言ってくれた。
 カタン。また荷車が動き出した。カタン、カタン。その揺れがまるで揺り籠に揺られているように心地よくて、私は荷車に背中を預けながら落ちてくる瞼を受け入れた。少しだけ、お言葉に甘えよう。

「おや? 彼女を迎え入れることにしたのですか?」
「ああ」

 遠くでギンナンさんとウォロさんの会話が聞こえるような感覚。私の意識は現実と夢の世界の擦れ擦れを彷徨っているみたいだ。

「珍しいですね」
「そうか?」
「ええ。ルテアさんがギンナンさん以外の人間に対して、あのように手を差し伸ばすことも含めて。……ギンナンさんは商人として損をすることはしない主義でしょう?」
「別に、彼女を迎えることを損だとも危険だとも思っていない。相当のものは頂いたし、彼女が頼りになるのも確かだ。それに……ルテアも感じているんだろう」

 瞼が完全に落ちる直前、ギンナンさんの深い海のような眼差しが私に向けられたことがわかった。

「もしかしたら、この子は……」

 意識が夢の世界に落ちる直前に見えた視線も、私のことを指す『この子』という声色も、まるで宝物にでも触れるように酷く優しかった。



2022.02.24



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