喪失に宿る青


 頬にざらついた感触がする。瞼を閉じていてもわかるほどの明るさが、私に降り注いでいる。
 瞼を持ち上げながら、ゆっくりと体を起こす。
 すると、そこには――目が覚めるほどの青が、在った。
 水平線の彼方まで続いている海は酷く穏やかに波を作り、砂浜に寄せては返している。蒼穹に浮かんでいる太陽の輝きを浴びた砂浜は、光を反射してキラキラと輝いている。
 美しい景色に見入っていた私の脳が、じわじわと動き始める。声を出すことを忘れてしまったように、口の中で言葉が転がってはまた飲み込まれる。
 私は今までどうやって話していた? 私は今までどこにいて、何をして、ここにいる? ここは、ここは……?

「ここは……どこ……? 私は……何……?」

 ようやく絞り出した声は頼りなく、自分の声であるはずなのに酷く違和感があった。
 わからない。目の前に広がる美しい景色の名前を、私は知らない。私自身のことすらもわからないのだから、当然といえば当然だった。
 私は、誰だろう。いえ、名前はわかる。わかるというよりも、私の体に染み込むように馴染みのある単語がたった一つだけ頭の中に在るから、きっとそれが名前だと思うだけで確信はない。
 肝心なのはそれ以外のことだ。目が覚めるまで、私はどこで何をしていたのだろうか。私は、何者なのだろうか。
 ゆっくりと立ち上がって、シースルーのワンピースから伸びた素足に付いた砂を払う。潮風が上着を攫ってしまわないように抑えながら、自問する。

「見慣れない海だわ……私が知っている海と違う……あら? 私はどこの海を知っているのだったかしら……?」

 答えが出てくるわけがないとわかっていながら、言葉として形にせずにはいられなかった。誰かが答えを返してくれるかもしれないと、無意識に救いを求めているのかもしれない。

「何かとても大切なものを失って……それに……とても大切な人がいてくれた気がするのに……思い出せない」

 わからない。わからない。わからな、い。
 上着を胸元にギュッと寄せる。シースルーのワンピースとはアンバランスな青いジャケットからは、私ではない誰かの温もりを感じる気がする。誰かが、貸してくれたのかしら。
 すうっと息を吸い込むと、仄かに香るホワイトリリーが嗅覚を満たした。サイズ的に考えても男の人のジャケットなのに、優しく清潔感のある甘さの柔軟剤の香りは女性的だった。

「……落ち着く、な」

 まるで、大切な誰かに抱きしめられているような。そんな幻想すら覚えてしまう。
 寄せては引き、引いては寄せ。単調に繰り返す波の音は永遠を形にしたようにすら思える。
 何もわからない私は、どうしたらいいのだろう。ずっとこのまま一人で、ここに立ち尽くしているしかないのかしら。
 私はギュッと拳を握りしめた。
 記憶が曖昧で確実なことはわからないけれど、昔から私は助けを待ってばかりで、誰かに救われてばかりいたような気がする。もしかしたら今回も、誰かが助けてくれるかもしれない。
 でも、そのままではいけない、と、思う。待っているばかりだと、私自身は何も変わらない。今あるなけなしの勇気さえ、なくなってしまいそうだ。全て確信のないただの妄想かもしれないけれど、でも。
 ――ジャリッ。背後で砂を踏む音が聞こえた。
 もしかしたら、人かもしれない。ここがどこなのか、わかるかもしれない。
 淡い期待を胸に振り向いた私の目に飛び込んできたのは。

「!?」

 足元から耳の先までの高さは一メートルはある。空気を含んでふんわりと膨らんだ尻尾や首元を覆う体毛の愛らしさは変わらないのに、つぶらな瞳は警告を促すライトのように赤く光っている。

「なに、このポケモン!? イーブイ、よね。目が赤いし、規格外に大きいわ……?」

 ハッとして口元を手で覆う。イーブイ。そう、目の前にいるのはポケットモンスター、縮めてポケモンという不思議な生き物で、その中でもイーブイという種族だ。

「ポケモン……そう、ポケモン……私はこの生き物を知っている……!」

 自分の名前以外にも覚えているものがあった。でも、感激している場合ではない。
 目の前にいる野生のイーブイは、その小さくも鋭い牙と爪を私に向けている。

「っ!」

 イーブイが後ろ足に力を込めた動作を確認した瞬間、私は左に飛び退いた。予想した通り、イーブイはすてみタックルを繰り出してきた。通常サイズのイーブイの技でさえ人間が受けてしまえば怪我では済まないのに、この規格外のイーブイが繰り出す技を受けてしまったら……考えただけでもゾッとする。
 イーブイは宙に向かって咆哮した。可憐な鳴き声とはかけ離れた、重低音だ。
 来る。そう思って脇に飛び退いたのと、イーブイが突進してきたのは同時だった。風が私の目の前を切る。このままでは、いずれやられる。
 応戦しなければ。無意識のうちに腰へと手をやる。でも、宙を掴むばかりでそこには何もなかった。

「っ、モンスターボールがない……!? どうしたら……」

 記憶は朧げでも、私はポケモントレーナーだったという確信があった。それなのに、今までいくつものバトルを共に乗り超えてきた仲間はそこにいない。私は、本当に、独りだ。
 どうしようもない孤独感が、津波のように押し寄せてくる。波に足を取られるように、足同士が絡まり縺れて躓く。勢いよく砂浜に叩き付けられた私の口の中に鉄の味がじんわりと広がった。目の前には牙を向いたイーブイがすぐそこまで迫っている。
 逃げられるわけでもないのに目をギュッと閉じた。瞼の裏に広がるのは暗闇であるはずなのに、なぜか鮮やかな金を思い出した。

「そのまま体を伏せていてくださいね」
「え?」

 声が聞こえた。穏やかで、でも凛としている、まるで雨のような声だ。
 目を開くと、青い光が私を守るように広がっていた。マリンブルー、コバルトブルー、マーメイドブルー。どれもしっくり来ない。空よりも高く、海よりも深い、どこまでも続くエバーブルーのような青に名前を付けるなら――群青色、だ。
 私とイーブイの間にはリオルがいる。規格外の大きさを持つイーブイとは対象的にとても小さく、首からかわらずのいしをさげている。このリオルが放つ光――リオルやルカリオが持つ特殊な能力である波導が、私を守ってくれたのかしら。
 私はというと、声の持ち主に体を優しく起こされていた。

「困ったわ。攻撃はわたしたちの専門ではないの。あなたがいるのなら任せてもいいかしら? ウォロさん」
「もちろんです。トゲピー!」

 脳をかき混ぜられているような衝撃に耐えながら、私の耳は周りの音を拾い、目は状況を確認しようとする。
 リオルの脇から飛び出したのはトゲピーだ。トゲピーは勇敢にも、自分の身丈の何倍もあるイーブイに立ち向かっている。そのトレーナーと思われる金髪の男性が指示を出しているけれど、お世辞にも的確とは言えない指示ばかりだ。

「大丈夫かしら?」
「怪我はないか?」
「はい。ありが……とう……」

 差し出された手を取って、その持ち主たちの視線を正面から受け止めたとき。
 まるで、時が止まったような感覚を覚えた。
 雨のような声の持ち主の女性は、肩口で切り揃えられた群青色の髪をしている。その瞳の色は、映っている私のそれと全く同じ色をしている。
 私と女性があまりにも似ているものだから、女性の隣りにいる銀髪の男性も驚いているみたいだった。海のような色をした瞳が微かに見開かれている。

「っ、さすがオヤブンですね。そろそろ限界です。リーダー、ルテアさん、退避の準備を!」
「ああ」
「わかりました」

 トゲピーを戦わせている金髪の男性はウォロさん。群青色の髪の女性がルテアさん。そして、銀髪の男性が彼らのリーダー。三人は黄色と青を基調とした制服のような衣装を着ていて、何らかの団体に所属していることが推察できる。
 私はどこか冷静だった。周りの状況を見て、オヤブンと呼ばれたイーブイを倒す心算を組み立てていた。

「イーブイはノーマルタイプのポケモンです。同じノーマルタイプの攻撃では大したダメージにはなりません」
「……ふむ」

 ウォロさんは興味深そうに私を眺めると、トゲピーのモンスターボールを私に差し出した。その間も、リオルは波導で障壁を作って私たちを守り、トゲピーは必死に戦ってくれている。

「お嬢さん。アナタに指示を任せてみても?」
「え?」
「ウォロ、他人のポケモンを従えるなんてできるわけがないだろう」

 リーダーと呼ばれた男性がウォロさんを咎める。でも、ウォロさんには聞こえていないようだった。自分たちが置かれている状況はお構いなしに、彼の瞳の中には好奇心という名の輝きが散りばめられていた。
 私はモンスターボールを受け取る代わりに、リーダーと呼ばれた男性の背後にある荷車を引いているポケモン――カイリキーを見上げた。

「この子は戦えますか?」
「カイリキーか? ある程度は戦えるが、戦闘のためのポケモンではないぞ」
「大丈夫。カイリキー、私に力を貸してくれる?」

 カイリキーは私をじっと見下ろした。自分の身を任せるに値する相手かどうか、見極めているのかしら。
 大丈夫、信じて。
 そして数秒後……カイリキーは私の前に立ち、四本の腕を大きく広げた。

「カイリキー、じならしで足場を奪って!」

 私の指示を聞いてくれたカイリキーは地面を踏み鳴らして、イーブイを横転させることに成功した。あとは、ノーマルタイプの弱点であるかくとうタイプの技を叩き込むだけだ。

「マッハパンチ!」

 目にも止まらない速さで繰り出された拳が、イーブイの急所を突いた。
 私は荷車の荷物の中に埋もれていた空のモンスターボールを手に取った。私が思っていたものと違って木製で、金具がついているけれど、それを投げないという選択肢はなかった。
 私が投げたモンスターボールは弧を描き、イーブイに向かって飛んでいく。それはイーブイの額にコツンと当たると、金具が開き、イーブイを中に取り込んだ。
 一回、二回、モンスターボールが揺れる。そして、動きが止まったと思うと、金具が閉じて上部の穴から蒸気が出てきた。
 ……捕まえ、た?
 ルテアさんは穏やかな微笑を崩さずに小さく手を叩いた。

「まあ。イチョウ商会のカイリキーを戦わせてイーブイのオヤブンを倒した上に、捕獲してみせるなんて」
「とても興味深いですね」
「……きみは一体、何者だ?」

 リーダーと呼ばれた男性の問いには、いくつもの意味が含まれているように感じられた。
 他人のポケモンに指示を出してバトルを上手く運ぶことができたこと。オヤブンと呼ばれる特別なポケモンをゲットしたこと。ルテアさんと私が鏡写しのように似ていること。きっと、彼らにとっては全てがイレギュラーであることに間違いはない。
 でも、今の私に、その問いに対する答えは一つしか持ち合わせていない。

「私は……レインです」

 レイン。それは私の中に残っている、たった一つの確かな言葉。口にするたびに強く、優しくなれる、大切な私の名前。



2022.02.22



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