変わらないサンゴールド


 変わらない街。変わらない太陽。変わらない空。変わらない海。変わらない景色。
 旅をする前と今で、目に映る景色は何も変わっていないはずなのに、どこか色鮮やかに見えてしまうのは、どうしてだろう。

「レイン、どうしたんだ?」
「えっ?」
「たった今、目が覚めたみたいにぼーっとしてる」

 デンジ君はコーヒーが入ったカップを持ち上げながらクスクスと笑った。なんだか気恥ずかしくなってしまった私は、紅茶が入ったカップを両手で持ち上げて、表情を隠すように縁に口をつける。ほんのり甘く優しい味わいをしたフルーツティーのフレーバーが鼻を掠めると、なんだか夢のような気分になってしまってなおさら頬が熱くなる。

「半年、だな」
「半年……? あ」
「そ。オレとレインが恋人になってから半年」
「そうね。私が旅を終えてナギサシティに戻ってきてからだから、そのくらいになるわね。覚えていてくれたのね、デンジ君」
「レインとのことなら何だって覚えてるさ」
「……ありがとう」

 デンジ君の言葉を噛み締めながら紅茶に視線を落とす。ナギサシティの太陽みたいに明るいオレンジ色の水色には、私が今まで知らなかった私の姿が映っている。まるで恋愛ドラマの主人公のように甘く蕩けた表情。目の前にいる男の人に、デンジ君に恋する女の顔。
 私は恋をしているんだ、デンジ君に。
 改めて実感すると、嬉しくて幸せが胸の中に満ちていく。私はデンジ君のことを心から愛していても、きっと恋という感情は持たないだろうと思っていたのに、複雑そうに見えて恋は案外単純だったらしい。何の理由もなく、順番なんて関係なく、ある日突然そこにあるもの。水滴がぽちゃんと落ちて水紋を作るように、心の中に広がっていくもの。
 私の中のデンジ君への恋心とは、そんな形だった。

「最近、仕事のほうはどうだ? 順調か?」
「ええ。ノモセジムで働かせてもらえるようになってから、マキシさんの下でみずポケモンや湿原について学ばせてもらっているの。旅をしてこの子たちのことをたくさん知ったつもりだったけど、マキシさんはやっぱりすごいわ。私が知らないことをたくさん知っていて、それを教えてくださるのがとてもありがたいの。お忙しくてジムにいない日も多いのだけど」
「マキシさんはプロのレスラーでもあるからな。試合で忙しいときはジムを空けるだろうし、そのときチャレンジャーが来ることを想定して、レインのことをジムリーダー代理として育てたいんだろ」
「じ、ジムリーダー代理……!?」
「ああ。ジムリーダーが出張や病欠で長期不在のときは代理が必要だろ? オレもショウマに任せるときがある。まあ、うちはほとんどのトレーナーにとって最後のジムだしそんなチャレンジャーはめったに現れないけどな」

 デンジ君やマキシさんを見て、ジムリーダーという仕事がどれだけ大変で、名誉あることなのかは知っているつもりだった。ノモセジムに挑戦したとき、次期ジムリーダーを目指してみないかとマキシさんに誘われはしたけれど、あれは冗談でもなかったということなのかしら。マキシさんはまだまだ現役だし、ジムリーダーの代わりという大役を私が担えるかは不安しかない。でも、マキシさんが不在のときにその場を任せると思えるほどの信頼と実力を私の中に見出してくださっているのなら、その期待に応えたいと思う。

「もっとポケモンたちのこと知って、もっと強くなりたいわ」
「じゃあ、ジムリーダー研修に行くのもいいかもな」
「ジムリーダー研修?」
「ああ。地方外のジムに行って研修をするんだ。主に、自分の専門タイプと同じタイプのジムに行くことが多い。オレもジムリーダーになったばかりの頃、イッシュ地方のライモンジムに一週間くらい滞在したことがある」
「なるほど……みずタイプの他のジムで学ばせてもらって、視野を広げるのね」
「ああ。みずタイプのジムがあるのは、カントー地方のハナダジムかホウエン地方のルネジムか……」

 そこまで言うと、デンジ君は口元をきゅっと閉じてしまった。形の整った眉の間には、みるみるうちに深いシワが刻み込まれていく。

「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
「……」
「……」
「……話してくれたら嬉しいな」
「……一週間そこらの研修だとしても、レインがまたいなくなるのは嫌だと思っただけだ」
「! デンジ君」

 頬杖をついて視線を海に向けてしまったデンジ君の横顔は、少しだけ拗ねているようだった。それがまるで子供みたいで、思わずクスリと笑ってしまった。

「ふふっ」
「笑うなよ。そもそも、オレをこんなに過保護にしたのはレインなんだからな」
「ふふふ、そうよね。ごめんなさい。私はもう勝手にいなくなったりしないし、どこかへ行くときは必ず相談するし、必ずここに……この太陽に愛された海の街と、デンジ君のもとに帰ってくるわ」
「レイン……オレも、もうこの手を離さない。何があっても、絶対に」

 私よりも一回り以上大きな手が、私のそれを優しく包み込む。不思議。手が触れ合うことなんて今までに何度もあったのに、こんなにもドキドキしてしまっている私がいる。手を握られて、甘い視線を向けられると、体が熱くなってきて、夢みたいな気持ちになってしまう。

「そろそろ行くか」
「うん」

 繋がれた手はそのままに、私たちはカフェテリアを後にする。
 特に行く宛もなければ、何かをしなければならないというわけでもない。一緒にいる必要がない時間を一緒にいるということを選べる関係になれたことが、とても尊く感じてしまう。

「どこに行こうか」
「そうね……あ、ナギサ市場に行ってもいい? 買いたいものがあるの」
「ナギサ市場か。しばらく行ってないな。いいよ、行こう」

 私たちの間を強めの潮風が通り抜けると、風の悪戯のように繋いだ手が揺れる。でも、デンジ君は手が離れないように指同士をギュッと絡めてくれた。機械いじりで少し硬くなってしまった指先の腹の感触さえも、なんだか愛おしい。
 ナギサシティの中心に位置する場所にあるナギサ市場は、たくさんの人で溢れていた。人混みを縫うように進みながら、私は目当てのお店の前で立ち止まる。そこは、モンスターボールをデコレーションするためのシールが売られているお店だ。

「買いたかったものってシールだったのか」
「ええ。孤児院の子供たちから頼まれていたの。ついでに、自分用にも買っちゃおうかしら」
「それならオレも買おうかな。エレキシールの新作が出たはずなんだよ」

 種類別に陳列されているシールを手に取って「この組み合わせは華やかになりそう」とか「お揃いのシールを使いたいな」とか、店先での会話を楽しみながら私とデンジ君はそれぞれのシールを選んだ。私はバブルシール、デンジ君はエレキシール、そしてお揃いのスターシールだ。
 ナギサ市場を後にした私たちは海浜公園へと向かった。ナギサの海が一望できるこの公園は、親子連れやカップルで賑わっている。そこをデンジ君と歩いていれば、自ずと注目されてしまう。だって、デンジ君はナギサシティだけではなくシンオウ地方でも知らない人はいないほどの有名人だから。でも、そんなデンジ君が私たちの関係を隠すことなく堂々としてくれることが、恥ずかしい以上にとても嬉しい。

「ふふ、たくさん買っちゃった。ナギサ市場はいろんな商品が揃っているから目移りしちゃうわね」
「ああ。ナギサ市場は、ナギサシティができるよりずっと前からある歴史ある市場だと言われているからな。品揃えは間違いない」
「そうなのね。あ、あのベンチに座ってシールを貼らない?」
「そうだな。そうしよう」

 二人掛けのベンチに腰を下ろして、買ったばかりのボールシールとモンスターボールを取り出す。中からポケモンが飛び出してきたときのエフェクトをイメージしながら、モンスターボールにシールをペタペタと貼っていく。

「できた」
「もう? デンジ君、早いわね」
「ジムの改造と同じで、こういうのは直感が大事だからな」
「ふふふ、そうなの? あ」
「ん?」
「デンジ君、頭に葉っぱが」

 私が自分の頭に触れる仕草をすると、デンジ君も同様の仕草をして頭に触れた。その指先が、金髪とは違う金に触れる。

「銀杏の葉っぱがついていたのか」
「ええ。綺麗な黄色に染まっているわね」
「落葉が始まってる。もうすぐ秋も終わるな」

 ふわり。風がそよぐ。風にさらわれた銀杏の葉が私たちの上にひらひらと舞いながら落ちてくる。落ちるときが一番美しいなんてなんだか少し切ないけれど、でも、本当に綺麗だ。

「金色の雨が降っているみたい」
「綺麗だな」
「……ええ。すごく」

 不思議。この景色も毎年見ていたはずなのに、今年はいつも以上に美しく輝いて見える。それは一体どうしてなのか。私には、理由は一つしか考えられなかった。
 変わらない街。変わらない太陽。変わらない空。変わらない海。変わらない景色。
 変わったのは、私とデンジ君の関係性。ただの幼馴染から恋人になったからこそ、私の世界は一層に輝きを増したのだ。

「すごく、綺麗」

 噛みしめるようにもう一度呟いて、私は降りしきる金色の雨を見上げた。



2022.02.07



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