拝啓、150年後のきみたちへ


 秋の風がコトブキムラを吹き抜ける、正午過ぎ。おれはルテアを探してコトブキムラを歩き回っていた。休憩に行ってくると言い残して荷車の前を離れたルテアが、なかなか戻ってこないことに不安を覚えたからだ。
 休憩中にルテアが行く先は限られている。人気が少ない場所を好む彼女は、訓練場の片隅や、川下のほとり、そして宿舎などで休むことが多い。
 考えられる場所は全て見て回ったが、ルテアはどこにもいなかった。ロトムとコリンクも一緒に探してくれているが、どうやらコトブキムラの中にはいないようである。
 と、なると。
 おれはミオ通りを抜けると、平門をくぐり、始まりの浜へと続く道を急いだ。

「ルテア」
「……ギンナンさん」

 思った通り、ルテアは始まりの浜にいた。樹の根元に腰を下ろし、幹に体を預けながら、果てしなく続く海を眺めていた。彼女の両脇にはリオルと、そしてイーブイが寄り添っている。

「ここにいたんだね」
「……はい。海を見たくなったのです。群青の海岸へはもう気軽に行けませんから」

 ルテアは制服の上から右足の輪郭をそっとなぞり、自嘲するように笑った。
 もともと、ルテアは秋に咲く花のように儚い存在だった。目を離してしまえば、秋時雨の向こう側に消えてしまうような。手を離してしまえば、風にさらわれて散ってしまうような。そんな儚さと寂しさを、薄氷色の瞳に宿していた。
 その一方で、ルテアは誰をも闇の中に引きずり込もうとする悪性を秘めていた。臆病な彼女はもう二度と自分が傷つかないために、近づいてくる人間を慈愛に満ちた微笑みで牽制し、踏み込んできた瞬間に朱殷に染める。本来であれば、ルテアはそんな女性なのだ。
 しかし、ルテアは時空の歪みの中で、デンジくんとレインさんを庇うために右足を深く負傷した。その傷は完治したものの、右足をもとのように上手く動かしたり力を入れることが難しくなってしまったのだ。趣味の弓矢すら、今までのように引くことが難しいほどに。
 ルテアはもう、一人で遠くへ行くことができない。そのせいか、彼女の中に眠っている狂気も今は身を潜めている。そのことに、ほんの少しだけ安心してしまったおれは、歪んでいるのだろうか。暗い場所に囚われ続けているルテアのために、おれはどこまでも光で在り続けたいと思うのに。
 邪念を振り切るようにして一歩を踏み出し、ルテアの傍に歩み寄った。

「デンジさんとレインさんは無事に帰るべき場所へ帰りつけたのでしょうか」
「ああ、きっと。もしそうじゃないとしても、あの二人なら大丈夫だ」
「ふふ、そうですね。記憶をなくした状態でヒスイの地に放り出されても、巡り会うことができた二人ですから」

 ルテアが立ち上がろうとした気配を察知したおれは、手を差し伸べた。ルテアは嬉しそうに微笑み、自分の手をおれのそれに重ねた。
 在りし日の光景が、再現される。
 しかし、立ち上がったその瞬間、ルテアは苦痛に顔を歪めて数歩よろけてしまった。

「っ」
「ルテア、大丈夫か?」
「はい。足の傷が少し痛んだだけです」
「そうか……戻れそうかな?」
「はい。コトブキムラからここまで歩くくらいは大丈夫でしたから」

 ルテアの負担にならないように、彼女の手を引きながらゆっくりと道を進む。ルテアは右足を引きずるように歩き、おれについて来ていたが、その足取りがピタリと止まったためにおれも立ち止まる。
 ルテアは今にも泣き出してしまいそうだった。彼女が涙を流したのは、おれと一緒になったときと、子供たちが産まれたとき。そして、二十年前の銀杏の木の下でおれがルテアの手を取ったあのときだけだというのに。
 リオルとイーブイが、ルテアの足元で戸惑いながら彼女を見上げている。きっと、足が痛むのを我慢していると思っているのだろう。でも、ルテアがこんな表情をする理由はきっとそうじゃない。

「ごめんなさい」
「謝ってはだめだよ。ルテアはデンジくんとレインさんを守ったのだから、むしろきみの勇気をおれは誇りに思う」
「でも、この足ではもう、行商は……」

 デンジ君とレインさんがヒスイから消えたことを見届けたあの後、急いでコトブキムラに帰り着いたおれたちは、医療隊のキネから「ルテアさんの足は、もう元通りには動きません」と告げられた。
 あのときから、ルテアの不安は薄々感じ取っていた。その足では配達にも行けないし、採取も難しい。店番をするのが関の山だ。このままでは仕事にならないと思っているのだろう。その不安を取り除くために、おれがかける言葉もすでに準備していた。

「決めた」
「え?」
「この地に根を張ることにしよう、ルテア」

 ルテアの足のことを差し引いたとしても、ヒスイ地方に来たときからぼんやりと考えていたことだった。いずれこのヒスイ地方は、人とポケモンが共存する素晴らしい場所に発展するのだろう。それは、時空の歪みに巻き込まれて未来からやってきたデンジくんとレインさんが証明している。
 ならば、おれはこの地で生きてみたいと思ったのだ。人とポケモンがどういう風に寄り添っていき、どういう形の関係性を築き上げるのか、考えただけでも興味と好奇心が尽きない。
 それに、あの二人が生きる未来の礎になれるのだとしたら、おれはこの決断をなおさら誇ることができるのだろう。
 ルテアは雨を塗り固めたような大きな目をこぼれんばかりに見開き、おれを見上げている。イチョウ商会という旅をしながら商いを営む集団の長として、この決断がどれだけ重要なことかルテアは理解しているのだ。
 彼女の細い肩を抱き寄せて、この決断は決してルテアのせいじゃないということを伝える。

「おれももう若くないし、いずれ誰かにリーダーの座を任せなければならない。それに、旅をしなくても商売はできるからね」
「……ギンナンさん」
「場所は……そうだな。いずれあの海の近くに住みたい」
「あの……海……」
「ああ。おれたちイチョウ商会が初めてヒスイ地方にたどり着いたときに足をつけた、イチョウの浜辺がある海だ。あそこは、おれときみの命を繋いだ二人と出会った大切な場所だから」
「……はい。ありがとうございます、ギンナンさん」

 ルテアは微笑み、おれの胸へとそっと頬を寄せた。滲む涙は喜びと幸福へと変わり、おれの制服に小さなシミを作っていることだろう。
 デンジくんとレインさんが残していったものは、たくさんある。ここにいるコリンクとイーブイもそうだし、イーブイのモンスターボールに貼られているシールやレインさんが着ていた服。おれたちがポケモンと共存する上でも、ヒスイ地方で商売を続けていく上でも、二人が残した物と想い出はかけがえのない糧になることだろう。

 ――拝啓、未来を生きるきみたちへ。
 
 おれたちは二人を忘れない。だから、二人もどうかおれたちのことを忘れないでほしい。おれとルテアが生きる軌跡は、きっといつか未来のきみたちに繋がるから。
 そして願わくばあの海の群青が、未来を生きるきみたちの傍に在りますように。



ever blue END 2022.06.06



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