永遠の群青


「シャワーズ、でんこうせっかからアイアンテール!」
「シャワッ!」

 シャワーズが四本の足に力を込めた次の瞬間には、でんこうせっかの攻撃はサイドンに届いていた。それは瞬きをする程度の刹那の時間だった。
 そのまま流れるような身のこなしで、シャワーズはよろけたサイドンの脳天をめがけて硬化させた尻尾を容赦なく振り下ろした。サイドンは白目をむいて気絶すると、その場に倒れてしまった。

「ミロカロス、しろいきり!」

 ミロカロスは美しい声を響かせると、雲のように真白な霧を吐き出して、背後からシャワーズを狙っていたマスキッパの視界を奪った。
 そして、霧が晴れたとき、周囲に満ちた冷気によって雨は礫へと姿を変える。

「ラプラス、こおりのつぶて!」

 ラプラスが放った氷の塊は、マスキッパだけでなく周りのポケモンを巻き込んで攻撃した。ポケモンたちは混乱して逃げ惑っている。シャワーズはともかく、ミロカロスとラプラスはヒスイ地方にいないポケモンだから、実力はもちろんのことその出で立ちからも、他のポケモンは警戒心を抱いているのかもしれない。
 戦いの最中、一瞬だけデンジ君に視線を送った。
 私のポケモンたちをデンジ君は戦わせることができているのか、という心配は微塵もなかった。私のポケモンたちはデンジ君に懐いているし、デンジ君も私のポケモンたちのことを自分の手持ちのように理解してくれている。彼自身の専門タイプであるでんきタイプを併せ持つランターンや、専門タイプの苦手となるじめんタイプの技を覚えているジーランスとトリトドンなのだから、なおさらその扱いには長けているのだ。
 デンジ君は私のポケモンたちそれぞれに合った指示を与え、私のポケモンたちはデンジ君をトレーナーとして認め、時空の歪みに発生したポケモンたちを次々に倒していく。私たちも負けてはいられない。早くこの場を切り抜けて、ルテアさんをコトブキムラヘ。そして……私たちは帰るべき場所へ。

「レイン」
「デンジ君」

 戦いの最中、とん、と背中合わせに互いの無事を確かめた。お互い肩で息をするほど消耗している。でも、こちらが体力を削られた以上に時空の歪みのポケモンたちを退けることに成功している。
 残っているのは……。

「あとはリングマだけか」
「ええ」

 残り一体となりながらも、リングマの眼光は怯まなかった。ルテアさんの血で濡れた鋭い爪を振り上げて、私たちに向かってくる。しかし、呼吸は乱れて胴体はふらつき、攻撃の狙いは定まっていない。なんの勝算もない、悪あがきの攻撃だ。
 私はシャワーズを、そしてデンジ君はランターンを前に出して、全力を持って迎え撃つ。

「シャワーズ、ハイドロポンプ!」
「ランターン、シグナルビーム!」

 不思議な光を纏わりつかせた水が、リングマに向かって水平に発射された。あまごいの効果で威力が増している水流に押されたリングマは、木の幹に背中を打ち付けられると目を回して気絶してしまった。
 私とデンジ君の口から漏れ出す荒い息づかいと、時空を歪ませている電気が弾けるような音だけが、その場に響いている。
 立っているポケモンは、私たちの手持ちの子たち以外にはいない。時空の歪みに発生したポケモンは気絶しているか、歪みの外へと逃げ出したかのどちらかだ。
 生きている。私も、デンジ君も、ポケモンたちも。
 私とデンジ君は手を取って抱きしめ合い、掴み取った勝利を噛み締めた。

「デンジ君!」
「やったな! レイン!」
「ええ! シャワーズたちも、ありがとう! まさか貴方たちが歪みの向こうからやって来るなんて……」

 そこまで口にして「あ」という言葉が漏れた。私の目の前にあるデンジ君の体の向こうが、透けて見えたからだ。それは私やシャワーズたちにもいえることで、体のあちらこちらが不規則に透け始めていた。きっと、私たちはもうすぐヒスイから消えるのだ。
 慌ててギンナンさんとルテアさんを見やる。
 気を失っているルテアさんを横抱きにしてしっかりと抱え上げたギンナンさんは、すでに時空の歪みの外に退避していた。半透明な壁一枚で隔てられた向こう側で、ギンナンさんは柔らかく笑っている。

「ギンナンさん、ルテアさん……!」
「この子たちことは、おれたちに任せてくれ」
「! イーブイ……」
「コリンク、おまえ……」

 いつの間にか、コリンクとイーブイはギンナンさんと一緒に時空の歪みの外に出ていた。私たちを見つめるつぶらな瞳は僅かに潤んでいたけれど、二匹はここに残ることを選んだのだ。
 私とデンジ君は視線を合わせて頷くと、イーブイたちのモンスターボールをそっと地面に置いた。寂しい気持ちはあるけれど、二匹の選択を受け入れるために精一杯笑ってみせる。

「おれたちのことも心配はいらない。レインさんのお陰で、ルテアの呼吸も落ち着いているからね」

 ギンナンさんは私たちを安心させるためにそう言っているのではなく、本当にルテアさんは大丈夫だと判断しているのだと思う。でなければ、ルテアさんが血を流したときにあんなにも悲痛な表情を見せた彼が、こんなに落ち着くことはあり得ないと思ったからだ。
 ルテアさんに傷を負わせてしまった責任は、きっと私の中にいつまでも残ってしまう。それでも、ギンナンさんの腕に抱かれるルテアさんは、まるで眠っているように穏やかな息づかいをしているから、ほんの少しだけ心が軽くなった。

「ルテアさんのこと、本当にごめんなさい」
「今までありがとうございました」
「ははは! 謝る必要はないし『ありがとう』はこちらの台詞だ」
「え?」
「きみたちは、例えば自分の子供が目の前で危険な目に晒されていたらどうする? 我が身を顧みず助けてしまうと思わないか? おれには、ルテアの気持ちがよくわかるよ」

 ギンナンさんが私たちを見つめる眼差しは、ルテアさんに向けるそれとは少し違う。
 ギンナンさんがルテアさんに向ける眼差しは、世界で一番大切な人へ注ぐ愛情が惜しみもなく滲み出している、夫として、男性としての眼差しで。
 私たちに向ける眼差しはまるで、護るべき対象を繭のように包み込む柔らかなものだった。例えるなら、父親が子供に向けるそれのように。

「きみたちに出会えてよかった。だって、二人はおれたちの……」

 ギンナンさんの姿が、消えていく。ギンナンさんの声が、溶けていく。自分の姿さえも認識できないほど、視界が、世界が、白んでいく。
 歪んでいく時空の中で、たった一つ確かな右手のぬくもりだけを、強く握りしめた。
 今度こそ、離れ離れにならないようにと。


 * * *


 深海のような暗闇の中を揺蕩っていた意識が、ゆっくりと浮上する。
 子守唄のような波の音が聞こえる。柔らかな秋の日差しが体中に降り注いでいる感覚がする。ざらついた砂の感触が頬を撫でる。嗅覚に染み付いてしまった潮の香りがあたりに満ちている。世界一安心する体温が私の右手を包んでくれている。
 ここは、私が知っている海だ。
 確信を抱いたその瞬間に、目を開けるよりも、体を起こすよりも早く、頭から爪先までを冷たい水がびっしょりと濡らした。

「きゃあっ!?」
「冷てっ!?」
「シャワーッ!」

 蹴飛ばされるように跳ね起きたのと同時に、シャワーズがすてみタックルにも等しい勢いで私の胸へと飛び込んできたものだから、私は勢いよく後ろに倒れ込んでしまった。デンジ君が抱きとめてくれなかったら、私は再び砂浜に寝転ぶことになっていたに違いない。

「シャワーズ! みんな!」
「シャワ! シャワーッッ!」
「ここは……ナギサシティの浜辺だ! 帰ってこられたんだな、オレたち!」
「ええ! みんな、心配かけちゃってごめんなさい。助けに来てくれて本当にありがとう」

 海だけじゃない。ソーラーパネルが敷き詰められた歩道橋も、浜辺から見えるナギサジムも、シルベの灯台も、眩しい太陽が輝く青空も、私たちが知るナギサシティそのものだ。本当に、帰ってくることができたんだ。
 シャワーズを強く抱きしめて、デンジ君に強く抱きしめられながら、現実を噛み締めた。

「今からが大変かもしれないな。オレたちがいない間、こっちはどうなっていたか……は?」
「どうしたの? デンジ君」
「これ、見てみろよ。ヒスイにいる間は電源を入れてもうんともすんとも言わなかったんだが……」

 デンジ君はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面が私に見えるように突き出してみせた。ロック画面に表示されている日付は……私がコンテストに参加したあの日から、一日しか経過していない。

「えっ!? 私とデンジ君がヒスイに迷い込んだのは……昨日の夕方、っていうことになるの?」
「ああ。たぶんな。あっちで過ごした数ヶ月が、こっちでは一日も経過していなかったみたいだ」
「そ、それは助かったような、逆に不都合というか……」
「今日は休日だから仕事をサボったことにはならないが、レインは無断外泊したことになってるだろうなぁ」
「あ……母さんたち、心配しているかしら。事情を話しても信じてもらえるかわからないし、謝って許してくれたらいいけれど」
「オレも一緒に謝りに行こう。レインの恋人として、信用に関わるからな」
「デンジ君……ありがとう」
「シャワ! シャワワ!」
「ええ。シャワーズたちにもきちんと説明する……くしゅん!」
「その前に、風呂に入って着替えないとな。特にレインは着物のままだし。おまえたち、オレたちが起きないからって頭から水をぶっかけることはないだろう?」

 デンジ君は苦笑しながらそう言った。シャワーズは「だって、心配だったんだもん!」とでも言いたそうな顔だし、ランターンは「このくらいで済んだだけマシだと思って」とでも言いたげだ。
 シンオウ地方で経過した時間がたった一日でも、みんなにはすごく心配をかけてしまったと思う。もちろん、デンジ君のポケモンたちにも。あとからきちんと説明して、たくさん甘やかしてあげたい。

「レイン、とりあえずオレの家に行こうか」
「ええ、そうね」

 デンジ君に手を引かれて立ち上がり、街へと向かう前に海を見つめる。
 波の音や、風の音。潮の匂いや、砂の匂い。
 イチョウの浜辺から見えていた海と、ナギサシティの海は似ているようでどこか違うけれど、果てしなく続く群青は変わらない。シンオウ地方の海とヒスイ地方の海は、確かに同じものなのだと感じられる。
 懐かしさと切なさと愛しさが同時にこみ上げてきて、私は小さく鼻をすすった。

「ギンナンさんとルテアさん、大丈夫だったかしら」
「ああ。ギンナンさんは商人だから取り繕うことが上手いけれど、嘘はつかない人だ。ルテアさんのことも、きっと大丈夫だったんだろう」
「デンジ君……」
「それに、オレたちがこの時代に存在していることが、何よりも証になるんじゃないか?」

 私はハッとしてデンジ君の顔を見上げた。
 初めてギンナンさんと出会ったときは結びつかなかったくらい、私にとってデンジ君は唯一無二の存在だけれど、今となってはわかる。理知的な広い額も、好奇心に忠実な指先も、光に透けて輝く髪も、この海と同じ色を宿した瞳も。デンジ君はギンナンさんの面影を宿している。
 そして、デンジ君も私を見て感じているはずだ。水のようにストンと流れ落ちる髪も、大切な人を愛する想いの強さも、雨を固めたような色をした瞳も。私の中にはルテアさんの面影があるのだと。

「ギンナンさんとルテアさんもそう思っているみたいだったけど、やっぱり、二人は私たちの……」
「ああ。祖先、というやつなのかもしれないな」
「そんなこと、あり得るのかしら。私たちは全然違う場所に生まれたのに」
「時代背景から察するに、ヒスイ地方は今より百五十年くらい昔の時代だろう。だとしたら、考えられない話じゃない。それに、ギンナンさんとルテアさんには二人の子供がいただろう? 片方がナギサシティの元になった群青の海岸に、もう片方がレインの故郷の島の元になった場所近くに定住したとしたら……」
「……壮大すぎて頭がついていかないわ」
「オレもだ。オレとレインには同じ血が流れているかもしれないなんて、な。今度家系図でも探してみるか」

 デンジ君は半ば冗談っぽく笑った。でも、もしそれが本当なのだとしたら、嬉しさと愛おしさで胸が一杯になりそうだ。ギンナンさんとルテアさんの愛は命を繋ぎ、幾重にも枝分かれした後に、私とデンジ君にたどり着いたのだとしたら、これを必然と呼ばずになんて呼んでいいのかわからないくらい、尊いことなのだと思う。

「ギンナンさんとルテアさんにはきっと二度と会うことができないけど、でも、私はずっと忘れないわ」
「ああ。レインが着ているその着物はもちろん、この海を見るたびに二人を思い出すだろう。それに、ギンナンさんとルテアさんの血が確かにオレたちの中に流れているのなら、二人はきっとここにいる」

 デンジ君は左胸のあたりに手を置き、目を閉じた。遠くに思いを馳せるような、祈るような、そんな仕草に目頭が熱くなる。
 ギンナンさんとルテアさんが繋いでくれた命を、大切にして精一杯生きていこう。もちろん、太陽に愛されたこの街で、デンジ君の隣で。きっと、二人もそれを望んでくれているはずだから。

「っ、くしゅん!」
「ほら、このままだと風を風邪引くぞ。急ごう」
「ええ。シャワーズたちも、行きましょう」

 デンジ君に手を引かれながら、私はもう一度海を振り返った。そこに広がる群青は、やっぱり、あのときと変わらない色で私たちを見守っていた。



2022.06.04



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