朱殷の贖罪、希望の雨音


 もし、リオルが体力を消耗していない万全の状態だったら、波導のバリアを張ってルテアさんを守ることができたかもしれない。
 もし、イーブイとコリンクが他のポケモンの相手をしていなかったなら、ルテアさんとリングマの間に割り込んで攻撃を受け止められたかもしれない。
 もし、ルテアさんがリングマを見て、その身を恐怖で固めなければ……記憶がなかった頃の私を守ってくれていた『彼女自身の波導』で、身を守ることができたかもしれない。
 でも、それらは全て『もしも』の話だ。デンジ君がとっさにルテアさんの手を引いたから致命傷は免れたものの、リングマの鋭い爪はルテアさんの右足を引き裂いて、鮮血を散らせた。これは紛れもなく現実なのだ。

「ルテア!!」

 ギンナンさんはスピンロトムにでんじはを指示して、向かってくるポケモンたちの動きを封じながら私たちのもとに駆け寄ってきた。

「ロトム、10まんボルト!」
「イーブイ、スピードスター!」
「コリンク、かみなり!」
「ガアァァアァッッ!!」

 三体同時に放った攻撃が直撃したリングマは、空気を震わせるほどの重々しい咆哮を上げた。その一瞬の隙に、ギンナンさんはルテアさんの肩を揺さぶり必死に声をかけた。

「ルテア! しっかりしろ! ルテア!」
「……っ」
「くっ、リオル! 『あのとき』のように、障壁をおれたちの周りに張れるか?」

 リオルの体力が限界に近いことは、ギンナンさんも理解しているはず。その上で、愛する妻をどうにかして救いたいという想いが溢れ出してきて止まらないのだ。
 ルテアさんを助けたいのはリオルも同じだった。リオルは震える唇をグッと噛み締めながら頷くと、両手を前に突き出して群青色の波導の壁を展開した。これで、しばらくは時間を稼ぐことができるはずだ。

「ルテア! 目を開けてくれ、ルテア!!」

 こんなに、感情を乱したギンナンさんを見るのは初めてだった。眉を固く寄せて、唇を噛み締め、震える手をなんとか動かしながら、自分のエプロンを裂くとルテアさんの右足に巻いて止血しようとしている。しかし、エプロンはすぐにルテアさんの血で赤く染まり、傷の深さを物語っている。
 このままでは、血を流しすぎて、ルテアさんは……。
 泣いても何も解決しないのに、涙が溢れる。怖い。目の前で大切な人の命が消えようとしている事実が、どうしようもなく怖かった。
 
「ルテアさん、ルテアさん! っ、ごめんなさい……」
「っ、オレたちのために、どうして」
「……どうして、危険とわかっていて、時空の歪みにとびこんだのか、ですか?」

 ルテアさんの瞼が薄っすらと持ち上がり、私と同じ色をした瞳が現れた。
 こんなにも深い傷だ。痛覚を感じていないわけがない。
 それなのに、ルテアさんは……いつもと何も変わらない、穏やかな微笑みを浮かべて私を見つめた。

「レインさん、泣かないでください。あやまるのはわたしのほうなのですから」
「え……?」
「わたしは……あなたがこわかった」
「……」
「あなたはわたしにとって、とても大切な存在なのかもしれない。頭では理解していても、わたしはギンナンさん以外の人間がこわくて仕方がないのです。実の子に対してすらそう感じるときがあるのですから、別の時代から来たあなたに恐怖をいだいてしまうのは、わたしにとって仕方のないことでした。……気を抜いてしまえば、わたしの中の化け物が、あなたを喰い殺してしまいそうなくらいに」
「ルテアさん……」

 いつだったか、ウォロさんと話していたときのことを思い出した。
 ルテアさんのことを、ウォロさんは『おぞましい』と言っていた。人当たりのいい笑顔を浮かべて人間を装ってはいるが、その本質は他人を極端に恐れ踏み込んでくるものを排除する衝動を抱える存在だと。
 確かに、そうなのかもしれない。でも、それでも。
 ルテアさんは、こんなにも、優しく笑ってくれるのです。

「でも、あなたはずっとまっすぐで、一緒に過ごすうちに……ああ、ギンナンさんとおなじなんだなって、おもえたのです……っ」
「ルテア!」

 ルテアさんの微笑みが苦痛に歪んだ。切り揃えられた前髪は汗で額に張り付き、呼吸は浅く短い。
 それでも、ルテアさんは私に何かを伝えようとしてくれている。何度も何度も、言葉を口の中で転がしながら、形にする。

「どうしてかばったのかなんて、考えるまでもありません。あなたたちは、わたしと愛するひとの命をつないだ、たいせつな……」

 最後まで言い切ることなく、ルテアさんの瞼は落ちた。胸はまだかろうじて上下に動いているけれど、このままだと本当に血を流しすぎて命を落としてしまう。
 私は誰にも悟られないように、小さく拳を握りしめた。

「ルテア! くっ、血が止まらない……!」
「……デンジ君」
「レイン?」
「もし、私が倒れたら後をお願いしても大丈夫?」

 その一言で、デンジ君は私が何をしようとしているのか悟ったのだろう。いつもならまず私の身を案じて止めに入る彼も、今回ばかりは首を縦に振ってくれた。デンジ君にとっても、ルテアさんは大切な存在なのだ。

「任せろ。だから、安心して『力』を使っていい」
「はい!」

 私は地面に横たわるルテアさんの傍にひざまずくと、止血のために巻かれたエプロンをゆっくりと解いた。
 ルテアさんの傷口は、想像以上に深かった。肉までもパックリと裂け、奥には白い骨のようなものが見える。思わず目を背けたくなる光景だ。
 傷口を隠すように、両手を添える。そして、私は持ちうる波導を手のひらに集中させる。
 私の手のひらから放たれたアイスブルーの光が、ルテアさんの傷口へと染み入るように浸透していく。その光景を見たギンナンさんが息を呑んだ気配が伝わってきた。

「この光は……レインさん、まさかきみもルテアと同じ『力』を……」

 私は……いえ『私たち』は、波導使いの力を受け継ぐ存在なのだ。
 きっと、私たちの血を辿った先にいる、伝説となった波導使いなら、ルテアさんの傷を跡形もなく癒やすことができたかもしれない。でも、私にできることはせいぜい血を止めるくらいのことだ。
 それでも、何も行動しないよりマシだった。これで、出血多量で命を落とす心配はなくなったはず。
 ルテアさんの傷口から手を退けると、ギンナンさんは目を見開いてルテアさんを抱き上げた。
 
「傷が治った……!?」
「あくまでも血を止める程度です。早く医療隊のキネさんに診てもらわないと」
「ガルァァァ!!!!」

 まるで地の底から沸き上がるような声でリングマが咆哮した。鋭い爪を持った両腕を何度も障壁に叩きつけ、壁を壊そうとしている。
 リオルに加勢しようと両手を突き出したけれど、その手はデンジ君に掴まれた。どうして、と問う前に、その目を見ただけでデンジ君が言おうとしていることが伝わってきた。こんなに切なげで、辛そうな眼差しは今までに見たことがない。
 ルテアさんに生命力を分け与えた今、私がさらに波導を使えばどうなってしまうのか。波導使いではないデンジ君でも察することは容易だった。
 でも、このままだとあと数分も持ち堪えられない。

「リオルの障壁が、壊される……!」
「今のおれたちの手持ちで、切り抜けられるか……?」

 私とデンジ君がヒスイに来てから育て上げたイーブイとコリンクでも、オヤブンポケモンを相手にするにはまだ力が足りない。ギンナンさんのロトムも体力を消耗しているようだし、もちろんリオルにはこれ以上戦わせられない。
 そもそも、障壁の向こうにはリングマだけでなくオヤブンポケモンが何体もいるのだ。奇跡でも起こらない限り、絶望に近いこの状況を打破することは不可能だ。
 奇跡なんて、そう簡単に起こるはずがない。誰にでも起こるものなら、誰も傷つかないし、私たちだってこんな状況に陥ることはなかった。ルテアさんだって、こんな怪我を負うことはなかった。
 神様がいるのだとしたら、なんて残酷なんだろう。どうして私たちばかり、こんな不幸に見舞われるのだろう。

 そこまで考えて、まるで頭に水をかけられたかのように冷静になった。

 私たちは、本当に不幸? 時空の歪みに巻き込まれてヒスイ地方に飛んでしまったのも不幸? デンジ君と離れ離れになったのも不幸?
 確かに、大変なことは山ほどあった。一人で涙した夜も数え切れないくらいあった。命を落としかけたことも少なくなかった。
 でも、この時代に来ることができたからギンナンさんとルテアさんたちに出会えた。一緒に働いて、一緒にご飯を食べて、あたたかい時間を過ごすことができた。
 出会うはずがなかった人と出会えたことを、私は不幸と呼びたくない。奇跡でもなく、不幸でもなく、ましてや運命でもない。もっと強く、もっと確かなもの。それは――必然だ。

 そして、私たちはまた一つの必然を掴み取る。
 
「これは……」
「潮の匂い……?」

 外界から隔てられた時空の歪みの中だというのに、懐かしい香りが鼻を掠めた。群青の海岸を歩くと風が運んでくる潮の匂いとは似ているようで、少しだけ違う。
 この香りは、間違いなく、私たちの帰るべき場所の匂い。

「デンジ君!」
「ナギサシティの海に繋がったのか!?」
「ええ、間違いないわ。それに……この鳴き声!」

 目を閉じて、耳を澄ます。喧騒がシャットアウトされた静寂の中に、何ヶ月と聞いていなかった声が響く。
 私の名前を呼ぶ、声が、響く。
 目を開くと同時に、閃光が目の前で弾けた。ナギサシティの海の香りを連れて、現れたのは――。

「シャワーッ!」
「シャワーズ! ランターン! ジーランス!」
「トリトドンにミロカロス、ラプラスもいるのか!?」

 ――私の、大切な仲間たち。

「なんだ!? ヒスイ地方では見たことのないポケモンばかりだ……」
「デンジ君!」
「ああ、この先にオレたちが帰る場所がある!」
「ガルァアアアァァァッッ!!」

 リングマの渾身の一撃が振り下ろされたその瞬間、リオルの波導が限界を迎えた。割れたガラスのようにキラキラと輝きながら、障壁が解けていく。
 オヤブンポケモンは見える範囲だけで何体いるだろう。三体? 五体? 何体だって構わない。
 今の私たちには、怖いものなんてないのだから。

「コリンクとイーブイとロトムは、ギンナンさんとルテアさんの傍を離れるなよ!」
「ランターンとジーランスとトリトドンはデンジ君について! シャワーズとミロカロスとラプラスは、私と一緒に戦いましょう!」
「行くぞ、レイン!」
「はい、デンジ君! シャワーズ、あまごい!」

 雨が降る。シャワーズが発生させた雨は、時空の歪みの中で静かに降りしきる。
 ルテアさんは雨が苦手だと言っていたけれど、この雨は誰かを凍てつかせるためのものではない。
 私たちに、希望をもたらす雨なのだ。



2022.06.01



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