そして、死神は嗤う


「きゃ、あ、ぁ、あ……っ!」

 跳ね上がりそうになる体でなんとかバランスを取りながら、私は焼け爛れたイーブイの尻尾になんでもなおしを丁寧に塗った。幸いなことにやけどはすぐに治り、ルテアさんが自ら調合したというなんでもなおしの効能に頭を下げるばかりだ。
 イチョウ商会の荷車はそもそも貨物用で、人を乗せるために作られたものでも、全力疾走し続けるほどのスピードを出していいものでもない。あまりに揺れるものだからルテアさんのリオルはたまに体勢を崩してよろけているし、ルテアさんがそのまま持ってきた弓矢は荷車の隅でカタカタと音を立てている。
 私は荷車の中から声を張り上げた。

「だ、大丈夫!? カイリキー、いくらなんでも飛ばしすぎじゃ……!」
「リッキー!!」
「どーやら、問題ないようだ」
「……ありがとう!」

 私たちを乗せた荷車をカイリキーが頑張って引いてくれているおかげで、いつもかかる時間の半分足らずで群青の海岸まで着くことができそうだ。

「デンジさん」
「ん?」
「本当に、群青の海岸に時空の歪みが発生するのでしょうか?」
「ああ。レインが言うのなら、確実だ」
「そう、ですか」
「そもそも、ギンナンさんたちも信じているから制服に着替えてきたんだろ?」
「ははは! 時空の歪みが発生した後にはお宝がたくさん落ちているからね」
「はい。仕入れがはかどりますね」
「ふふふ」

 ギンナンさんもルテアさんも、今日が仕事休みということは関係ないみたい。仕事熱心というよりも、目の前の好奇心を抑えられない、というように感じる。そんなところが、なんだかデンジ君に似ているような気がした。

「私、純白の凍土から帰る途中でも時空の歪みに遭遇したことがあったの。あのときは、誰かに引き留められている気がして飛び込むことができなかったけれど」

 あのときは私の記憶の底にいたデンジ君の存在が、私をヒスイ地方に引き留めたのだと今になってわかる。それに、あのとき時空の歪みに衝動的に飛び込まなくて本当によかったと思う。

「でも、今思い返したらそれが正解だったのかもしれません。私とデンジ君がヒスイに現れたのは群青の海岸だった。だから」
「そうか。群青の海岸に発生する時空の歪みが、オレたちの時代に繋がっている可能性が高いな!」
「ええ」

 太陽に照らされて煌めく浜辺と、永遠にも似た蒼い海。あの場所が、私たちののナギサシティに繋がっている。そんな気がするのだ。

「ん? 揺れが落ち着いてきたな」
「……止まったわ。外に出てみましょう」

 先にデンジ君が荷車から飛び降りると、着物を着て動きにくい私を気遣い手を差し出してくれた。その手を取ってゆっくりと地に足をつけ、前方を見上げる。

「デンジ君。あれは……」
「ああ。間違いなく、時空の歪みだ」

 オバケワラを抜けた先の砂の手の中心に、大きなドーム状の虹色の光が発生している。まだ禍々しさの欠片さえも見当たらず、その光はどこか神聖なもののようにさえ見える。その本来の姿を知らなければ、興味本位で近づいてしまう人間やポケモンがいてもおかしくはない。
 でも、これは間違いなく時空を歪め、そこに在るものを容赦なく別の時空へと飛ばす、混沌の卵だ。これが完全体になったとき、ドームの中は私たちの常識が通用しない世界へと変わる。
 怖くない、といえば嘘になる。でも、私たちはいかなければいけないのだ。

「デンジさん、レインさん」
「行ってしまうんだね」

 私たちの心境を見透かすように、ギンナンさんとルテアさんが声をかけた。私とデンジ君は改めて二人に向き直ると、頭を下げた。

「ギンナンさん、ルテアさん。本当にお世話になりました。私たち、まだ満足にお礼もできていないのに……」
「感謝をしてもらうのは早いよ。無事にきみたちの時代に帰り着いたら、その着物を見るたびにおれたちのことを思い出してくれたら嬉しい」
「! はい。ルテアさんも、お元気で」
「……はい。レインさんも」
「リオルも、元気でね」
「クゥ」

 ギンナンさん、ルテアさん、リオル。一人ずっとしっかり視線を合わせて、別れの言葉を交わした後、私は決意を固めてデンジ君を見上げる。

「デンジ君」
「ああ。行くぞ」
「はい!」

 振り返らない。振り返ったら、決意が鈍ってしまいそうだから。また、甘えてしまいそうだから。そのくらい、イチョウ商会……いいえ、ギンナンさんとルテアさんは頼れて、安心できる存在だった。
 でも、この先はもう頼ることはできない。私とデンジ君の力で、元の時代に帰らなければ。
 私たちは一歩を踏み出して、時空の歪みの中に踏み入った。

「少し薄暗いわね……」
「ああ。歪みが始まってまだ時間が経っていないようだな。どこの時空とも繋がっていないようだ」

 外から見たら淡い虹色の光に包まれた、まるでシャボン玉のように見えた歪みは、中に入ると思いの外薄暗く、このドームの中ではすでに時空が歪み始めていることがわかった。
 私は思わずデンジ君のジャケットの裾をギュッと握りしめてしまった。きっと、デンジ君だって怖いに違いないというのに。私ばかり怖がって頼っては、いけないのに。

「もし、時空を超えた先が私たちのシンオウ地方じゃなかったら……」
「その恐れは十分にある……いや、その確率のほうが高いかもしれない。だから」

 デンジ君は私の右手をそっと解くと、一回り以上も大きな左手で包み込み、しっかりと握りしめてくれた。

「手を繋いでいよう。今度は絶対に離れないように」
「……うん」

 本当に元の世界に戻ることができるのかという、不安が消えることはない。でも、デンジ君と一緒だったらどんな世界に辿り着いてもきっと、大丈夫。私たちはそうやって、今までいくつもの壁を乗り越えてきたのだから。

「……コリンクとイーブイは、どうするかな」
「あ」

 私は帯から下げていたモンスターボールを取り出した。私たちの時代から持ってきてしまったバブルシールが貼られたモンスターボールを開くと、弾ける泡とともにイーブイが現れた。イーブイは周りの景色がいつもと違うことを察して、どこか落ち着かなさそうだ。
 デンジ君も同じようにコリンクを呼び出すと、片膝をついて二匹と視線を合わせた。

「リン?」
「ブイ?」
「コリンク、イーブイ。よく聞くんだ」
「私たちはこれから、ヒスイ地方とは違う別の時代に行くの」
「そこには人間やポケモンがたくさんいて、今ほど自然豊かじゃなくて、ポケモンを利用する悪い人間だっている……あ、もちろんポケモンと仲良く暮らす人間のほうが圧倒的に多いけどな。……でも、もしかしたらおまえたちにとっては怖い世界なのかもしれない」

 デンジ君は私たちの世界のことを、一つ一つ偽ることなく伝えた。良いことも、悪いことも。全てを理解した上で、二匹には決断をして欲しいから。 

「もし、おまえたちがおれたちについてくるのなら歓迎する。でも」
「この世界で、ヒスイ地方で生きたいのなら、このまま私たちの傍を離れて野生に戻るか、それとも……」

 ヒスイ地方で生きるためのもう一つの道を提示しようとした、そのとき。強烈な光と、電撃が迸るような音が、ドームの中に轟いた。
 そして光が収まったとき、そこは禍々しく暗い世界に変わっていた。宇宙の色を混ぜ込んだマーブル模様のドームが、完全に形成されていたのだ。
 私たちは反射的に、近くの草むらへと身を隠した。

「時空の歪みが完成したのか!?」
「野生では見かけないポケモンばかりだわ……」

 私達が取った行動は、どうやら正解だったみたいだ。ヒスイ地方ではまず見かけないコイルやレアコイルというポケモンたちや、野生として生息するには珍しいドサイドンやブースターといったポケモンたちが徘徊している。今の私たちが出くわしてしまったら、ひとたまりもなく倒されてしまうに違いない。

「デンジ君」
「ああ。オレたちの世界に繋がるまで、今は耐えるしかない」
「クゥ……」
「ブイ……」
「コリンク、イーブイ」
「勝手なことを言ってごめんなさい。でも、私たちが元の世界に帰れるチャンスは今なの……!」
「決めてくれ。オレたちについてくるか、ここに残るか」

 コリンクとイーブイには申し訳無さしかない。ヒスイ地方で私たちが生き残るために捕まえて、そしていざシンオウ地方へ帰ることができるかもしれないという間際になって、選択を迫ってしまったのだから。本当なら、もっと早くから、どうするか決めておくべきだったのに。
 波導を使わなくても二匹の気持ちが伝わってくる。「二人ともっと一緒にいたい。でも、知らない世界に行くのは怖い」……と。
 そのとき、二匹の選択を急かすように、私たちの目の前に雷のような何かが落ちた。その数は三つ。弾けた光から現れたのポケモンは、目に真っ赤な光を宿し、獰猛なまでに大きな巨体を見せつけながら、私たちに牙を剥く。

「オヤブンポケモンたちがこんなに……!」
「セキが言っていた噂は本当だったのか!」

 マスキッパ、サイドン、ユンゲラー。どのポケモンとも決して相性がいいとは言えないし、オヤブンポケモンの巨体を前にするとどうしても足がすくんでしまう。
 それでも、イーブイとコリンクは私たちの前に進み出てくれたのだ。

「イーブイ!?」
「ブイッ!」
「コリンク!?」
「ワウッ!」
「……ああ、まずはこの場を切り抜けるほうが先だな! コリンク、スパーク!」
「イーブイ、でんこうせっか!」

 先手は、取れた。二匹の攻撃にオヤブンポケモンたちはよろけ、体勢を崩した。

「「スピードスター!」」

 息をつく暇を与えず、星型の光線を飛ばして攻撃する。威力はそれほど高くなくても、必ず命中する攻撃は着実にオヤブンポケモンたちの体力を消耗させていく。
 このまま押していけば、いける。
 しかし、優勢でいたのも束の間だった。戦闘を察知した血の気の多いポケモンたちが、私たちの周りにわらわらと集まってきたのだ。
 イーブイとコリンクは、私とデンジ君の指示をよく聞いて的確に技を当てている。でも、それを上回る数のポケモンが押し寄せてきて、一斉に技を放たれては太刀打ちしようがなかった。

「っ、数が多い!」
「このままじゃ……!」

 負ける。それはすなわち、死を意味する。
 背筋が粟立つ。私たちは、ここで終わってしまうの? 私たちがいなくなった後のシンオウ地方がどうなったかもわからないまま、牙の餌食になってしまうの?
 そんなの、嫌だ。まだやりたいことがたくさんある。見たい景色だって山ほどある。それらは全部、私一人じゃなくてデンジ君と一緒に一つずつ叶えていきたいものだ。

 それなのに、マスキッパが繰り出したはっぱカッターが目の前まで迫っていた。
 イーブイは別のポケモンを相手に戦っている。デンジ君はコリンクへの指示を出しながら、私を庇うように抱きしめた。このままでは、二人ともまとめて引き裂かれてしまう。
 まだ終わるには早い命を、なんとか、繋ぎ止めたい。でも、どうしたら。

 数秒が永遠にも感じられた時間を、貫くように一筋の光が眼前を横切った。
 マスキッパが放ったはっぱカッターは、一本の矢によって樹の幹に留められた。

「矢……?」
「この矢は…!」
「飛び込んでみて正解だったね」
「はい」
「ギンナンさん! ルテアさん!」

 矢の軌道を辿ったところには、ギンナンさんとルテアさんとリオルがいた。二人が、駆けつけてくれたのだ。
 目が潤む。脱力してしまいそうになる足を、踏みしめる。
 でも、やっぱり、ギンナンさんとルテアさんが私たちを守るようにポケモンたちとの間に立ちはだかってくれると、枯れ始めていた希望が再び湧いてくるようだった。

「わたしたちがオヤブンポケモンを引き受けましょっ」
「その間に、きみたちは元の世界へ」
「でも、ルテアさんのリオル一匹しかいないのに!」
「おれが戦えないなんていつ言った?」
「え?」
「荷車を引いてくれるカイリキーたちとは別に、イチョウ商会はみんな自分のポケモンたちを使役している」

 ギンナンさんは、笑った。三匹のオヤブンポケモンと、複数のポケモンたちを相手に囲まれながらも、不敵に唇を釣り上げたのだ。
 その姿が誰を連想させたかなんて、説明するまでもない。
 ギンナンさんは帽子を深くかぶり直すと、取り出したモンスターボールを横手に投げた。

「カラクリからもらった力を見せるんだ、ロトム!」

 モンスターボールから現れたポケモンは、ロトム。しかも、扇風機の姿を模したスピンフォルムのロトムだった。

「行くよ、ルテア」
「はい。リオル、頑張れますか?」
「ワンッ!」
「ふふ、いい子です」

 ギンナンさんとルテアさんは背中合わせに立つと、それぞれスピンロトムとリオルをバトルへと繰り出した。
 一言で言うならば、二人は『強かった』。スピンロトムのエアスラッシュはポケモンたちの急所を捉えて相手を怯ませ、その隙にリオルがはどうだんを撃ち込んでいる。ピンチのときにはリオルが波導のバリアを張り、攻撃が収まったのを見計らって力を溜めていたロトムがかみなりを落とす。阿吽の呼吸とは、今の二人のことを言うのだろうと思った。

「レイン、今のうちに!」
「ええ!」

 二人のバトルに思わず見入っている私の手をデンジ君は強く引き、走り出した。
 マーブル模様のドームの中の、あらゆる場所が歪み、捻れている。何もなかったところに突然ポケモンが現れたり、目の前に機械じかけの道具が落ちてきたり、本当にここはヒスイではないどこかと繋がっているのだということを改めて知る。
 でも、私たちはまだここに在る。シンオウ地方からヒスイ地方へ飛んだときのように、上手いこと歪みに巻き込まれることができない。

「っ、あのときはすぐに飛ばされたのに」
「必ずしも別の時空に飛ばされるわけではない、か……規則性がない掟破りの時空というわけだ」

 上も下も、前も後ろも、重力さえも関係ない、掟破りの時空。まるで破れた世界みたいだと、頭の片隅でぼんやり思った。
 改めてこの場所の不規則性を認識したそのとき、頭上で閃光が弾けた。

「上か!?」
「きゃあっ!」
「レイン!」

 忽然と空中に現れだマスキッパに気を取られた私は、慣れない着物を着ていることもあって自分の足に躓いて転んでしまった。血の味がじんわりと口の中に広がる。
 さっきから、私は足を引っ張ってばかりだ。デンジ君に抱き起こされながら、情けなさのあまりに涙が滲みそうになる。
 そうこうしている間にも、マスキッパは私たちを丸呑みにしようと大口を開けて迫っている。イーブイとコリンクは技の指示を待っているのだから、トレーナーがしっかりしなければ。
 しかし、私とデンジ君が技を指示するよりも早く、群青色の光の弾が宙を裂いて飛んできて、マスキッパを吹き飛ばした。この色は、ルテアさんのリオルの波導の輝きだ。
 ルテアさんは私たちに駆け寄ると、ホッとしたように笑った。

「ルテアさん」
「大丈夫か、レイン?」
「ええ」
「さあ、早く立ってください。いつ、どこにどんなポケモンが出現するかわか……」

 ――バチリ。ルテアさんの言葉は最後まで続かなかった。彼女の目の前を、閃光が走ったからだ。
 ルテアさんとリオルはその瞬間、すぐに戦闘態勢に入った。どんなポケモンが現れたとしても、対処できるように。旅をしながら商いを営むイチョウ商会の一員として、どんなポケモンが現れても退け、大切なものを守ることができる『力』をルテアさんは持っているはずだ。
 でも、ルテアさんは動かなかった。まるで時が止まってしまったかのように、頭の先から指先までを硬直させている。いつも穏やかな笑顔を崩さなかった瞳は見開かれ、瞬きすらすることなく目の前のポケモンを見上げている。

「リン、グ、マ?」
「ルテアさん!」

 身丈三メートルを超えるリングマは、赤く光る眼光をルテアさんに突き刺したまま、鋭い爪を振り下ろした。飛び散った赤はリングマの眼光の色よりも深く、鮮やかに、ルテアさんの体を染め上げた。



2022.05.29



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