きみに酔いし秋時雨の夜


「こ、これは……!」

 ギンナンさんとルテアさんの宿舎に案内された私とデンジ君は、入口の脇に置いてある道具箱の中身を見て驚愕するしかなかった。そこに入っていたものは、ヒスイ地方の科学技術ではありえない精密な機械の数々だった。

「エレキブースター!? こっちはマグマブースターだし、アップグレード、メタルコートもあるぞ!?」
「……こっちは、冷蔵庫よね……?」
「あら。このカラクリつづらは『れいぞうこ』という名前なのですね」

 ルテアさんがオレンジ色の冷蔵庫の扉を開くと、クラフトで使う道具がずらりと並んでいた。どうやら工具入れとして使われているらしい。電源が入っていないから当然のことだけれど、冷気のレの字もない使い方だ。扇風機のことを『かざぐるま』と言っていたことからもわかるように、この時代のものではない道具の使い方がわかるほうがおかしいのだけれど。

「どういうことだ? どれもこれも、オレたちの時代にあるものばかりじゃないか。オレたちが住んでいるシンオウ地方から百年以上も昔のヒスイ地方に、こんなものがあるなんて……!」
「だから、言っただろう? 時空の歪みから仕入れたんだって。ルテア」
「はい」

 ルテアさんは炊事場の奥に入っていったと思うと、お猪口と徳利をお盆にのせて再び現れた。小鉢には湯がいたころころマメがこんもりと盛られている。

「デンジさんとレインさんは、お酒はお好きですか?」
「え?」
「まあ、嫌いではないが……」
「よかった。ギンナンさん、こちらをお出ししてもよろしいでしょうか?」
「ああ、頼むよ」
「はい、デンジさん。レインさんもこちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「リオルにはあとからイモモチをだしてあげますからね」
「ワフッ!」

 私とデンジ君にそれぞれお猪口を渡されて、まずはデンジ君のほうに徳利の中身が注がれていく。とくとくとく、と透明な液体が落ちている様子を見て、デンジ君の喉が上下に動いたのがわかった。
 続いて私のお猪口にも同じように注ぎ終えると、ルテアさんは最後にギンナンさんの隣に寄り添い、お猪口に徳利を傾けた。そのやり取りがあまりにも自然で、普段から二人が仲睦まじく晩酌をしている様子を簡単に想像することができた。

「レインさんには話したね。時空の歪みが発生すると、歪んだ時空に巻き込まれて未来や過去からポケモンや道具がやってくることがあると」
「は、はい」
「まさか」
「そーだよ。おれたちは時空の歪みを見つけたらまず歪みがおさまるのを待って、そこに落ちている道具を仕入れて売り物にしている」
「え!? で、でも時空の歪みの中には凶暴なポケモンがいると、セキさんが……」
「そうですね。ですから、わたしたちイチョウ商会はみな自分のポケモンがいるのです。何があっても対処できるように」
「みんなを危険な目にあわせることはできないからね。歪みの中に潜り込ませることはしないが、商売になるものは全て利用する。こんなふうに珍しいカラクリを見つけることもあるからね」

 そう言って、ギンナンさんは今日拾ったという扇風機のフレームをコンコンと叩いた。
 セキさんが『イチョウ商会に身をおいていたらいずれわかる』と言っていたけれど、こんなにも早く点と点が繋がるとは思っていなかった。まさか、イチョウ商会自体が歪んだ時空と密接な関係に合ったなんて。
 一連の話を聞き終えても、デンジ君は納得がいっていない様子だった。まるで『時空の歪みと関わりがあるならどうして一番最初に言ってくれなかったんだ』とでも言うように、視線を鋭く尖らせている。

「そう睨むな。おれたちだって、いつどこで時空の歪みが発生するのかわかっていたら、きみたちに一番に教えていたよ」
「時空の歪みは神出鬼没ですから、わたしたちも偶然遭遇しない限り時空の歪みを見つけることはできないのです。今回はギンナンさんと黒曜の原野まで配達に行ったときに、たまたま時空の歪みに遭遇して、これを拾ってきたのです」
「……」
「……レイン?」

 扇風機に触れたまま動かない私を、デンジ君は不思議そうに見ている。きっと、ギンナンさんとルテアさんも同じような表情をしているに違いない。
 でも、この行動には意味がある。デンジ君と再会して全てを思い出した今の私は、代々受け継いできた特別な『力』を――波導を、使える。
 時空の歪みから現れたという扇風機が纏う波導を覚えれば、もしかしたら今後なにかの役に立つかもしれない。
 ギンナンさんとルテアさんは、これ以上教えられることはないと言わんばかりだった。ギンナンさんのお猪口が空になると、すかさずルテアさんが注ぎだす体勢をとる。

「ギンナンさん、どうぞ」
「どーも。でも、明日も仕事だからね。ほどほどにしておくよ」
「ふふふ、そうですね。デンジさんとレインさんも、空いていますよ。どうぞ」
「あ、ありがとうございます。いただきます」

 とくとくと注がれたお酒が溢れないように、お猪口をゆっくりと口元に近づけた。あっさりとした味わいだ。これならいくらでも飲めてしまいそう。

「デンジさんはお酒はお強いのですか?」
「……いや、弱くもないが強くもない」
「あら、そうですか。主人もそうなのですよ」
「……ルテア、そういうのは言わなくていーから」
「ふふふ、失礼いたしました」

 意外、だった。勝手なイメージでギンナンさんはお酒に強いとばかり思っていたからだ。
 飲み始めたばかりのときは不機嫌さを隠そうともしないデンジ君だったけれど、今はだいぶ機嫌がなおってきたみたいだ。金髪の隙間から時折見え隠れする耳の先は赤く、もしかしたらすでに少しだけ酔いが回っているのかもしれない。

「ルテアさんは強そうですね」
「おやおや? どうしてわかった?」
「なんとなく」
「ルテアは強いと言うより、ザルだからね」
「そうですね……少しだけ眠たくなってしまう以外は、特に変わりありませんね」
「それなら、レインは枠だな」
「枠……!?」
「まあ」
「全く表情を変えずに、いくらでも飲むんだ。まるで水でも飲むように。な?」
「わ、私、そんなに飲んだことがあったかしら……?」
「あった。オーバも含めて三人で飲み比べしたとき、大の男二人が酔い潰れても一人でケロッとしてただろ? オレたちがキツイっていう酒を、まるで水を飲むみたいに飲んじまうんだからな」
「ははは! 人は見かけによらないな」

 ギンナンさんは声を張り上げて笑うと、お猪口を傾けて中身のお酒を飲み干した。タン、とお猪口を置いたとき、いつも自信と貫禄に溢れているその表情に、どこか寂しさの色が見えた気がした。

「きみたちが在るべき場所に帰ってしまったら、こうして飲むことも語り合うこともできなくなるんだね」

 私は思わずハッとしてしまった。元の生活に戻ることばかりを考えていたけれど、それはギンナンさんとルテアさんとの別れを意味する。
 もともと出会うはずがなかった二人だ。二人と出会う前に戻る、ただそれだけのことなのに、どうしても寂しさを拭うことができない。それに、ギンナンさんも同じ気持ちを持ってくださっていることが何よりも嬉しい。

「仕事のことは忘れて、飲みましょうか」
「ああ。今日だけは特別だ」

 デンジ君とギンナンさんはお猪口を控えめに合わせると、それを同時に傾けた。
 それから、どのくらい飲み続けていたのだろう。途中から徳利が空になった回数を数えることを忘れてしまった。たくさんの話をしたし、たくさんの話を聞いた。

 ――そして、窓から見える雲隠れの月が夜空の一番高いところまで登った頃。

「ふふふ」
「こうなっちゃいましたか……」

 ルテアさんは私の膝元を見て微笑ましそうに笑っていた。そこには、すっかり酔いが回ってしまったデンジ君が私の膝枕でくつろいでいるのだ。

「レイン……」
「で、デンジ君……!」

 甘えるように私の名前を呼び、腰に腕を回す。普段のデンジ君からは想像がつかない酔い方だ。私とふたりきりのとき以外はこんな酔い方をしない、といったほうが正確だけれど。

「そろそろお開きにしたほうがよさそうだね」
「はい。ギンナンさんも、頬が少しだけ赤いですよ? 先に横になられますか? 後片付けはやっておきますから」
「ん。ありがとう、ルテア。レインさん、楽しい夜をありがとうとデンジくんにも伝えておいてくれるか?」
「はい。もちろんです」

 そして、ギンナンさんはルテアさんの前髪をくしゃりと撫でると、襖の向こう側の部屋に消えてしまった。
 そういえば、デンジ君とギンナンさんがクラフトについて熱く語り合っている間に、ルテアさんは一度だけ襖の向こう側に姿を消していたときがあった。すぐに戻ってきたけれど、もしかしたら布団を整えにいっていたのかもしれない。
 ご主人であるギンナンさんを立てて、自らは一歩下がって後をついていく。しかし、細かな気遣いを常に張り巡らせて、仕事のパートナーとして、妻として、見えないところでギンナンさんのことを支えている。それは愛がなせる技だと思った。

「ルテアさんは本当にギンナンさんのことを愛していらっしゃるんですね」
「まあ。突然どうしたのですか?」
「なんとなく、そう思ったんです」

 ルテアさんは、座布団の上で眠ってしまったリオルに布団をかける手を止めて、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。

「はい。ギンナンさんは愛する夫である前に、わたしにとってとても大切な人ですから」
「大切な……」
「どうしてそう思うようになったのか、残念ながら覚えていないのですが」

 ギンナンさんとルテアさんが出会ったのは二十年ほど前のことだと聞いているし、結婚をしたのもそれから数年後だ。そんなに昔の話なら、馴れ初めを忘れていても意味はない。
 でも、私にはなぜか他の理由がある気がして、ならなかったのだ。

「レインさんもでしょう?」
「え?」
「デンジさんのことを、愛しているのでしょう?」
「……はい」

 そう、私はデンジくんを愛している。
 私がデンジ君の恋人という立ち位置になって、恋をしているのだという自覚を持つことができるようになったのは最近の話。それまでは、ただひたすらに愛していた。家族に対するような、兄に対するような、ポケモンがマスターに対するような、そんな盲目的な愛情を抱いていた。
 そのきっかけは、今でもはっきりと覚えている。暗い海で溺れていた私を掬い上げてくれたあの力強さは、きっと何年経っても忘れることはない、

「デンジ君は私の光なんです」

 ナギサシティを照らす太陽のように、みんなを照らす強い光。誰もがデンジ君のことを『輝きしびれさせるスター』だと言うし、星は無数に存在するけれど、私にとって彼の代わりはいない。太陽のように自ら輝く強さを持った、たった一人だけの眩しい存在なのだ。

「光……そう、ですね。そう言われると、馴染む気がします。わたしにとってのギンナンさんも、きっと光なのですね」

 ルテアさんはまるで遠い昔を思い出すように目を細めて、笑った。今にも消えてしまいそうな儚さと、汚れのない純粋な愛情が溢れ出るような、そんな笑顔だった。

「あら?」
「あ、雨が降り始めたみたいですね」

 雨粒は徐々に数を増やし、窓に美しい簾を作り上げた。まるでこの部屋だけを雨の世界に閉じ込めるように、途切れることなく雨の音色を紡ぐ。
 心地よくて目を閉じかけた私の視界に、ルテアさんが映る。いつも穏やかな表情が少しだけ固くなっているような気がした。

「ルテアさん?」
「ごめんなさい。雨は少し苦手なのです」
「そうなんですね。私も、昔はそうでした」

 嵐の海で溺れていたあのときの記憶は、まだ鮮明に覚えている。身体が沈んでいく恐怖と、遠ざかる海面。無音の世界に包まれる寸前まで聞こえていた雨音。暗闇も、海も、雨も、全てが私にとって恐怖でしかなかった。

「でも、デンジ君が私の苦手を好きに変えてくれたんです」

 みんなから呼ばれることで雨を好きになれるようにと与えてくれた名前も。デンジ君のコバルトブルーの瞳を思わせる海も。……ナギサシティは停電が日常茶飯事だから、暗闇は、未だ少しだけ苦手だけれど。
 思い出すだけでも笑顔が溢れる。デンジ君はこんなにも、私に幸せをくれた人。
 膝枕の上で眠ってしまった金髪を撫でながら、私はもう少しこの時間を過ごしていたいと思った。

「ルテアさん。あの、もう少しだけ二人で飲みませんか?」
「それは素敵な提案ですね。レインさんがよろしければ、ぜひ」
「はい! 私、ルテアさんとギンナンさんのお話をもっと聞きたいです」

 秋の夜は長く、降りしきる秋時雨は冷たいけれど、今夜は穏やかな楽しいひと時を過ごすことができそうだ。



2022.05.20



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