未来の鱗片に触れる


 紅蓮の湿地はその名の通り、赤褐色の沼地が多く見られる湿地帯だ。湿気を含んだ空気が体中にまとわりつき、イチョウ商会の制服の下はじんわりと汗が滲んでいる。
 コンゴウ団の集落は、深紅沼を越えた先にある湖の畔にあった。集落の中心には日時計の役割を持つ岩があり、それを取り囲むようにして住居が円状に並んでいる。
 私は初めて訪れる場所に興味津々だったけれど、ヒスイ地方に来てからずっとここで生活をしていたデンジ君は勝手知ったるという様子で、集落の中を迷わず進んでいく。

「ここがコンゴウ団の集落だ」
「わぁ、のどかで素敵なところね」
「まずはコンゴウ団の制服を返すか……」

 デンジ君は歩きながら集落の中をぐるりと見渡して、見知った顔を探しているみたいだった。そして、デンジ君は焚き火に薪をくべている女の人に視線をとめた。

「ヨネ!」

 ヨネと呼ばれた女の人が視線を上げると、彼女の足元にいるゴンベも同じように、私たちのほうへと視線を向けた。
 ヨネさんは私がシンオウ地方で知り合ったマイちゃんという女の子にそっくりで、マイちゃんが一回りほど成長したら彼女のようになるのではないかと思ってしまうほどだった。

「デンジ! あんた、コンゴウ団を抜けるんだって?」
「ああ。長いこと世話になったな。制服、返しに来た」
「本当に抜けるんだね。ま、探しものが見つかったのならそれはよかったんじゃないかい?」

 ヨネさんはデンジ君からコンゴウ団の制服を受け取ると、私を見て意味ありげに笑った。涼しげな目元と凛とした表情から結びつくとおり、竹を割ったようにさっぱりとした性格みたいだ。

「セキならリッシ湖のところにいるよ。イチョウ商会のリーダーの息子と一緒にね」
「リーダー……? ギンナンさんの、息子さん……?」
「ああ、あいつか」

 デンジ君は続けて「あいつも他人の空似とは思えないんだよな……」とぼやくと、ヨネさんにお礼を言って再び歩き出した。
 リッシ湖――私たちが住んでいたシンオウ地方では、ノモセシティの近くにある湖だ。
 デンジ君と再会してお互いの近状を報告しあった夜に、彼はヒスイ地方を『シンオウ地方の昔の姿』だと言っていた。そう言われて初めて、私はシンオウ地方の歴史を遡るという考えに至ることができた。私たちの時代から遡ること約百五十年ほど昔のシンオウ地方は、まだポケモンと人が共存するに至っていなかったとスクールで習った覚えがある。だとしたら、私たちはきっと時空の歪みによって未来からやってきたことになる。
 もし、その仮説が正しいのだとしたら。この紅蓮の湿地はいずれノモセシティや大湿原になるのかもしれないし、ギンナンさんたちと出会った群青の海岸にはナギサシティができるのかもしれない。そう考えると、今まで何気なく見ていた景色がとても尊く感じられるようだった。
 ヨネさんに言われた通りリッシ湖の畔へと向かうと、セキさんが誰かと話していた。セキさんの正面にいるシルバーブロンドの髪を持った少年は、私たちが二人のところへ辿り着く前にどこかへと駆けていってしまった。その横顔を見て、デンジ君が子供だった頃を思い出してしまったのはどうしてかしら。
 私たちが声をかける前に、気配に気づいたセキさんはこちらを振り返る。

「おう、デンジか。イチョウ商会の制服姿、なかなか様になってるんじゃねえか」
「セキ、昨日は満足に礼も言えずにすまない。……記憶がないオレを仲間に入れてくれたこと、本当に感謝してる。それなのに、突然「コンゴウ団を抜ける」なんて……」

 デンジ君が申し訳無さそうに頭を下げると、セキさんは首を横に振った。

「デンジ、人の時間は有限だ。限りある時を有効に、そして自分が大切だと思うもののために使え。シンオウさまもきっとそう仰ってくださるさ」
「……サンキュ」
「あの。デンジ君のことを助けてくださってありがとうございました」
「礼ならオレじゃなくてススキに言うことだな! えーっと」
「レインと申します」

 改めて名乗り、深々と頭を下げた。昨日は結局挨拶をすることができなかったから、挨拶とお礼の機会を与えてくださったギンナンさんたちには感謝しか浮かばない。
 顔をあげると、セキさんは目を細めながら口角をつり上げて笑っていた。

「なるほど、デンジが言っていたあの『レイン』か」
「セキ、その目をやめろよ」
「ははは! 寡黙なやつだと思っていたが、デンジもそんな顔をするんだな」

 そんな顔、というと一体どんな顔なのだろう。今みたいに、雨上がりの空に光が差し込んだような柔らかな表情だったら、いつものデンジ君そのものだけれど。セキさんにとっては、そうじゃないのかしら。
 もしそれが私のためだけの表情で、他の人には見せていない一面なのだとしたら……とても、嬉しい。
 頬をだらしなく緩ませていると、デンジ君は照れ隠しを誤魔化すように、リュックから取り出した荷物をセキさんに向かって突き出した。

「いいから、ほら。荷物を頼んでいたんだろ?」
「応よ。助かったぜ」
「ここに署名をお願いします」
「ここだな」
「配達ついでに聞きたいことがある」
「なんだ? 手短に頼むぜ。時間は有限だからな」
「時空の歪みという現象が起こる原理を知っているか?」

 ピクリ。帳票にサインしてたセキさんの手元が止まり、万年筆の先から滲んだインクが小さなシミを作った。再び筆を走らせたセキさんはサインを書き終えると「時空の歪みか……」と低く唸った。

「いくらオレが時を崇めるコンゴウ団のリーダーとはいえ、あの現象を解き明かすのは骨が折れるってもんだ。つまり、知らねえ」
「そうか……」
「ヒスイの人たちにとっても不思議な現象なんですね」
「時空の歪みがどうした?」
「私たちはもしかしたら、あの歪みに巻き込まれてヒスイ地方にやってきたのかもしれないんです。だから、もう一度あの歪みに飛び込んだら……」
「時空の歪みに飛び込む!?」

 突然、セキさんが大声を上げるものだから、受け取った帳票を思わず落としてしまいそうになった。

「おいおい、冗談はやめておけ。時空の歪みの中には凶暴なポケモンたちが徘徊しているという噂だぜ。そんなところに飛び込んだら、帰る前に身体を引き裂かれちまう」
「そんな……」

 セキさんの言葉が脅しではないことくらいわかる。ヒスイ地方に住む人は冗談を言うことはあっても、命に関わることについてはいつだって真摯なのだから。
 でも、私たちだって真剣だ。現状、時空の歪みに頼らない限り時空を超えることはできない。それならば、危険を承知で飛び込む以外に道はない。
 デンジ君も私と同じ考えのようだった。コバルトブルーの瞳には、決意と覚悟が宿っている。

「それでも、オレたちは賭けるしかないんだ」
「ええ、そうね。私たちの街へ、ナギサシティに帰るために」
「レインのことはオレが必ず守る。何があっても、今度こそ必ず」
「デンジ君……。ありがとう。私も、貴方を守るわ」
「……そうか。それならオレは止めねえぜ」

 そこまで言うと、セキさんは思い出したかのように目を瞬かせた。

「まあ、あれを商売とする変わったやつもいるくらいだからな。案外、なんとかなるかもしれねぇぜ?」
「え?」
「イチョウ商会に身をおいていたら、いずれわかるさ」

 セキさんが言う『あれ』とは、話の流れから時空の歪みのことだと察することができる。でも、どうしてそこからイチョウ商会の話が出てくるのか、今の私たちにはどうしても結びつけることができなかった。


* * *


「ただいま戻りした!」
「おかえり〜」

 コトブキムラに戻ると、荷車の前で店番をしているツイリさんと彼女のヤンヤンマが出迎えてくれた。ツイリさんがコトビキムラの中でヤンヤンマを出しているなんて、珍しい。いつもはモンスターボールの中に入れているのに。
 荷車を引いているカイリキーたちとは別に、イチョウ商会のみなさんはそれぞれ自分のポケモンを持っている。ルテアさんはリオル。ウォロさんはトゲピーとフカマル。エシモさんはドーミラー。シマキさんはユキワラシとパラセクト。そして、ツイリさんの手持ちはヤンヤンマだ。
 いつだったか、ギンナンさんは「自分がリーダーに就任したとき、行商中にポケモンに襲われても対処できるように自分のポケモンを育てることを義務づけた」と話していた。でもその割に、ギンナンさんが彼のポケモンと一緒にいるところを今までに見たことがないとぼんやり疑問が残る。
 私の視線に気づいたツイリさんが「たまには空を思い切り飛び回らせたくて」と言って笑うと、ヤンヤンマはギンガ団本部の屋根の高さまで上昇し、その場で旋回した。風を切る姿が気持ちよさそうだ。

「ツイリさんだけですか? ギンナンさんとルテアさんは?」
「リーダーがクラフト場にこもってるから、ルテアさんもその付き添いだよ」
「クラフト……ギンナンさんもクラフトをするのか」
「ありがとうございます。行ってみますね」

 イチョウ商会はクラフトをするための道具を持っていて、コトブキムラのクラフト屋を使わなくても、材料さえあれば自分たちの手で大抵のものは作ることができる。いつだったかギンナンさんが宿舎の裏に道具を広げてモンスターボールを作っていたし、ルテアさんがキズぐすりの調合をしている姿を見かけたこともあった。
 私はデンジ君と一緒に宿舎の裏側に回った。思った通り、ギンナンさんとルテアさんはそこにいた。二人の周りにはトンカチやペンチのような道具が散乱している。

「あら。レインさん、デンジさん。おかえりなさい。お怪我がなさそうでよかった」
「ありがとうございます、ルテアさん。ただいま帰りました。あの、お二人は何をしているのですか……?」
「面白いものを拾ってね。このカラクリ風車をどー思う?」

 私とデンジ君は思わず目を見合わせてしまった。ギンナンさんとルテアさんが囲んでいるの、オレンジ色のフレームの中心に三枚の羽根が取り付けられた『カラクリかざぐるま』は、どこからどう見ても……。

「扇風機、よね……?」
「ああ、扇風機だ」

 扇風機、だった。電源を入れると羽根が回転して、涼しい風を運んでくれるあの電気機器だ。ヒスイ地方の古めかしく風情のある景色からは明らかに浮いている。どうしてこんなものが、ここにあるのだろう。デンジ君も私と同じ考えのようで、眉間にシワを寄せている。
 困惑する私たちとは対照的に、ギンナンさんは好奇心からいつもよりも表情が明るかった。

「中身を開けたら面白いカラクリが詰まっていたんだが、その仕組みが解けなくてね」
「そういうことなら、デンジ君が大得意です。ね?」
「ああ」

 デンジ君は腰を落とすと、扇風機を傾けて操作部の裏面を確認した。ベース部分のカバーが取り外されていて、ギンナンさんがいう『カラクリ』部分がむき出しになっている。

「……いけそうだな」

 デンジ君は散らばっている道具を使って『カラクリ』をいじり始めた。
 デンジ君とはずっと一緒にいるから、趣味の機械いじりのことについては普通の人よりも詳しいつもりだ。道具の名前とか、使い方とか、普通の女の子とはあまり縁がないものを知っている……というよりも、自然と覚えてしまった。そんな私でも、デンジ君が何をどういじくり回しているのか理解することはできず、ルテアさんと一緒に首を傾げるばかりだった。ただギンナンさんは、デンジ君の指先が『カラクリ』を解き明かしている様子を興味深そうに眺めていた。

「よし、コリンク。ここに電気を流してくれるか?」
「クウッ!」

 コリンクはデンジ君が差し出した電源プラグを咥えると、全身を震わせながら電流を発生させた。すると、扇風機の羽がゆっくりと回転を始め、心地よい風が私たちの髪を撫でた。

「風車のような羽根が回った……!?」
「まあ、すごい。このカラクリは風を受けて回るのではなく、自分で涼しい風を作ってくれるのですね」
「すごいじゃないか、デンジくん。このカラクリの状態をよく見破ったね」
「このくらい朝飯前だ。それは『オレたちがいた時代の道具』なんだから」
「! デンジ君」
「どうして『未来の道具』がここにあるんだ?」

 デンジ君は単刀直入に切り出した。まるで「オレたちがシンオウ地方に戻る術を知っていながら隠しているのではないか?」とでも言うような口ぶりだった。
 ギンナンさんの答え次第では、このまま二人は衝突してしまうかもしれない。心配をする私をよそに、ギンナンさんは涼しい顔でこう答えた。

「拾ったんだよ。時空の歪みの跡地から」



2022.05.16



- ナノ -