共鳴せし雷雨


 ヒスイ地方に来てから、心の底から安眠できる日なんてなかった。風が戸をカタカタ鳴らす音や、ムラの見回りをする警備隊の方の足音や、イーブイの寝返りでも起きてしまうことがあった。夜中に目が覚めると途端に孤独を実感してしまって、早く朝が来てほしいとこっそり泣いてしまったときもあった。
 でも、デンジ君に抱きしめられて迎えた朝は、とてもあたたかくて、色鮮やかで、光に溢れていた。あんなに朝を待ち望んでいた夜も、これからはもう怖くないと思えた。
 ぐっすり眠ることができた私と違って、デンジ君は寝不足そうだったけれど。その理由を思い出して小さく笑ってしまうと、デンジ君の長い指先が私のおでこを控えめに弾いた。そのやり取りも懐かしくて、二人でおでこを合わせて笑い合って、ようやく布団から起き上がった。

「どうだ?」

 簡単な朝食を済ませた後、私たちはイチョウ商会の制服へと着替えた。初めて制服に身を包んだデンジ君は少しだけ落ち着かなさそうに、姿見に映る姿をいろんな角度から見ている。

「すごく似合うわ! デンジ君!」
「……そうか? レインがそう言うなら、いいか」

 ふと、デンジ君のコバルトブルーの視線が姿見の横へと滑る。そこには青いジャケットがかけられている。ヒスイ地方に来る前に、デンジ君が私の肩にかけてくれていたものだった。

「記憶がない間もオレの上着を持っていてくれたんだな」
「ええ。ヒスイ地方に来てから独りぼっちになっても、この上着を見たら不思議と勇気づけられたの」

 誰もいない宿舎を出るときは、このジャケットに向かって「いってきます」と言っていた。帰ってきたら、一番にジャケットの前に立ち「ただいま」と口にした。そうすることで、私は孤独を紛らわせて安心感を得ていたのだ。きっともう、そんな必要はなくなるのだけれど。

「ブイブイ!」

 私たちの会話を聞いていたイーブイが不足そうに鳴き、エプロンを咥えて引っ張った。この子が何を言わんとしているのか、まるで手にとるようにわかる。私は膝を折って、イーブイと視線を合わせて頬に触れた。

「ごめんなさい。イーブイが一緒にいてくれてたわね」
「ブーイ!」
「それにしても、でっかいイーブイをゲットしたなぁ。オレのコリンクの倍くらいありそうだ。オヤブンとやらか」
「そうなの。ヒスイ地方に来た初日にバトルをして、仲間になってくれたのよ」
「初日に!? レインのポケモンバトルの腕は知っているが、さすがだな」
「ふふ。デンジ君のコリンクはどうやって仲間になったの?」
「こいつか? こいつは怪我をしていたところを保護したんだ。なかなか警戒心が強くて荒っぽい性格だったが、今じゃ頼れる相棒だ。な?」

 デンジ君が笑いかけると、コリンクは応えるように鳴いた。
 よく見たら、デンジ君の手は噛み跡や引っ掻き傷だらけだった。これはきっと、コリンクと辛抱強く向き合った証で、だからこそコリンクは警戒を解いてデンジ君と共に在る道を選んだのだろうと思う。
 それぞれのヒスイ地方でのパートナーと一緒に、宿舎を出る。デンジ君と並んでコトブキムラを歩いているなんて、未だに不思議で足元がふわふわする。でも、隣を見上げると返ってくる微笑みは、間違いなく本物だ。

「どうした?」
「ううん。なんでもないの」

 デンジ君が隣りにいる。その事実だけで、私は胸がいっぱいだ。
 ギンガ団本部の前まで来ると、ギンナンさんとルテアさんは今日も早くから開店の準備をしていた。私たちの気配に気づいたルテアさんは品物を広げる手を止めると、駆け寄っていった私のイーブイを撫でながら微笑みかけてくれた。

「おはようございます。ギンナンさん、ルテアさん」
「おはようございます。レインさん、デンジさん」

 私とルテアさんが挨拶をしている傍らで、ギンナンさんはデンジ君の出で立ちを上から下までじっくりと眺めた後、満足そうに頷いた。

「なかなか似合っているじゃないか」
「どうも」
「きみも今日からイチョウ商会で働いてもらうことになったわけだが、早速だが二人で配達に行ってもらおうか」
「はい! 今日はどこまで行きましょう?」
「紅蓮の湿地のコンゴウ団の集落へ」
「! コンゴウ団の集落……」

 コンゴウ団。つい昨日まで、デンジ君が身を寄せていた集落だ。
 私と再会したことで記憶を取り戻したデンジ君は、抱擁の後にセキさんと向き合い「この子をずっと探していたんだ」と言った。その一言ですべてを察したセキさんは「ギンナンの旦那。うちのをよろしく頼んでもいいか?」と言って、ギンナンさんもまたそれに答えるように笑った。
 それから、デンジ君は私が借りている宿舎に住むことと、イチョウ商会として働くことが決まったのだった。

「昨日は慌ただしいまま別れてしまったからね。コンゴウ団の長に挨拶してくるといい」
「時空の歪みについてもわかることがあるといいですね」
「はい! もちろん行ってきます! ね? デンジ君」
「ああ。衣食住を提供してもらってるんだから、相応の働きはする」

 今日の任務は紅蓮の湿地への配達だ。あそこは凶暴なマスキッパが至るところに生息していて、一瞬たりとも気を抜くことができない場所だけれど、デンジ君と一緒なら全然怖くない。元の世界に帰る手段探しも含めて、頑張らなきゃ。
 拳を小さく握りしめて意気込んでいると、ふと、ルテアさんと視線が合った。

「ふふふ」
「どうしたんですか? ルテアさん」
「ごめんなさい。レインさんの笑顔がとても眩しく見えたものですから」
「!」
「デンジさんと再会できて本当によかったですね」
「……はい」

 ルテアさんの言うとおりだ。本当に、本当に、よかったと思う。
 噛みしめるように頷く私の頭を、デンジ君の手が撫でる。ギンナンさんに撫でられたときとも、ルテアさんに撫でられたときとも、また違う安心感が私の中で生まれる。帽子越しが少しだけ残念だ。仕事を終えて宿舎に戻ったら、直接たくさん撫でてもらおう。たくさん甘えてしまっても、きっとデンジ君は受け入れてくれるから。
 そんな私たちを見つめる視線に気づいた。デンジ君の瞳と同じコバルトブルーの眼差しは、どこか不思議そうだった。

「あの、ギンナンさん。なにか……?」
「いや、きみたちは本当に他人なんだね? 兄妹などではなく」
「……オレとレインのどこをどう見たら兄妹に見えるのかわからないが」

 デンジ君は私の肩をぐっと引き寄せると――。

「レインはオレの恋人だ」

 ――きっぱりと、そう言い切った。
 デンジ君は言葉よりも態度で愛情を示してくれる人だけれど、今はきちんと言葉としても形にしてくれたことが、こんなにも嬉しい。でも、同時に恥ずかしさを覚えずにはいられなくて、熱が集まった頬を隠すために視線を落とした。

「そうか」
「……ニヤニヤして、なんだよ?」
「なんでもない。さあ、行ってきなさい。気をつけて」

 ギンナンさんは包みを取り出し、デンジ君に渡した。デンジ君は受け取った包みをリュックにしまうと、それを軽々と背負う。私にとっては大きなリュックも、身長が高いデンジ君が背負うと小さく見えてしまう。

「いってきます!」

 足取りも軽く、私たちは表門を潜ってコトブキムラを出発した。門番のデンスケさんが私たちに「気をつけろよ!」と声をかけてくれたけれど、心配そうに送り出してくれていた今までと違って、安心感が表情と声色に現れていた。
 今までの私は、心配をかけてしまうほど不安が外に溢れ出していたのかしら。だとしたら、笑って送り出してもらえるようになった理由は、デンジ君が隣りにいてくれるからに他ならない。私に合わせてくれる足音とスピードが、いつも見ていた景色を色鮮やかに変えてくれる。

「いつもはイチョウ商会の誰かと一緒に配達をしていたから、なんだか新鮮だわ」
「そうなのか?」
「ええ。慣れない土地だし、住んでいるポケモンたちだってシンオウ地方のポケモンよりも荒い気性をしているから、いつも誰かと一緒だったの。特にルテアさんと一緒に配達に行くことが多くて、ルテアさんはリオルの波導で……」

 そこまで口にして、私は違和感に気づいた。
 ルテアさんが私たちを助けてくれる群青色の光は、リオルが使う波導だと今までは思っていた。でも、記憶が戻ったことで波導という力を改めて認識することができた私は、記憶の中の違和感に気づいたのだ。

「リオルの……波導……?」
「レイン」
「!」

 低く、冷静に、デンジ君が私の名前を呼んだ。
 進行方向には六つの影がゆらめいめいている。顔をあげると、マスキッパの群れが不気味に宙を漂いながら、私たちを待ち構えていた。限界まで左右に裂けた大きな口からは涎を垂らし、葉や蔦に見間違う触手を不規則に動かしながら、私たちを捕食しようと狙っている。
 不思議と、怖くはなかった。その理由はとても明確で。

「数は六体、か」
「ええ。オヤブンはいないみたいね」
「ああ。それなら……オレとレインなら、余裕だな。コリンク!」
「イーブイ!」

 私たちの呼びかけを合図に、デンジ君のコリンクと私のイーブイが飛び出す。臆すことなくマスキッパの群れと対峙する二匹と、背中から伝わるあたたかさとたくましさに、私は勇気づけられる。

「久々のタッグだ。レイン、背中は任せた」
「はい、デンジ君!」

 雷が鳴れば、雨が生まれる。雨が降れば、雷が落ちる。雷と雨は共に在ることで、さらなる力を発揮する。
 怯えながら歩いていた世界も、今は少しも怖くない。貴方が隣りにいてくれるから。



2022.05.14



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