やがて海は雨を降らす


 意識がオレという存在を認識したとき、目の前には蒼が広がっていた。上も下も、右も左も、前も後ろも。見渡す限りの空間が深い蒼色だった。しかしただの蒼というわけではなく、下を見ると吸い込まれそうなほどに蒼は濃くなり、上を見ると光のカーテンが波打つように揺れていた。吐き出された息は泡になり、蒼へ溶けて消える。
 オレが意識を取り戻したのは、海の中だったのだ。
 海面へ顔を出したオレを運よく見つけてくれたのは、コンゴウ団のススキという男と、シンジュ団のガラナという女だった。海にぽつんと浮かんでいたオレを見つけたススキは、人が溺れているものと思ったらしい。イダイトウというポケモンの背に跨り、すぐに助けに来てくれた。

 ススキの家で暖を取らせてもらいながら、オレは二人に自分のことを話した。といっても、そのときのオレは記憶のほとんどを失っていて、自分のことが何もわからなかった。
 はっきりと言えるのは、オレはヒスイ地方ではないどこかから来たということ。生活するに必要な知識やポケモンに関する知識は残っていること。

 そして――『レイン』という、胸の中に強く残っている言葉が一つだけあること。

 はじめはレインというのがオレの名前なのだろうと思っていた。何もかもが不確かな記憶ばかりの中で、この単語だけは確かに、揺るぎなく、鮮明に、オレの中で静かに息づいていたから。
 しかし、自分の名前だとしたら、どうしてこんなにも愛おしく感じるのだろう。
 親からもらった名前を大切に想うことはなんら不自然ではないが、そうではないのだ。

『レイン』

 言葉にして声にのせると、愛おしい気持ちが生まれてくる。呼ばれるよりも、呼ぶほうが酷く馴染む。すなわち『レイン』という言葉はオレの名前ではなく、誰か大切な人の名前なのだということが結論づけられた。
 探したいと、そう思った。オレ自身の名前よりも強く心に残っていた、大切な名前の持ち主を。

 それから、オレはコンゴウ団に世話になることが決まった。居場所を与える代わりに任された役目といえば、壊れたものの修理や道具の改良、それからクラフトといった手先を使う仕事だった。道具を扱う細かな作業を違和感なくこなすオレを見たセキは「記憶を失う前はこれが本職だったんじゃねぇか?」と目を見張ったほどだ。
 確かに、物を作ったり修理したりする作業は「身体が覚えている」と言っていいくらい優れている自覚があった。しかし、それ以上にオレの心を奪ったのは――ポケモンの存在だった。
 ヒスイ地方に暮らす人々はポケモンのことを口々に『恐ろしい』と言っていた。セキやヨネのようにポケモンを戦わせることができる人間もいるようだが、その戦い方はオレから言わせたらまるでデタラメだった。一匹に対して三匹のポケモンで戦ったりと、ルールも何もあったものではなかったのだ。ヒスイ地方で暮らすポケモンは、人を見るなり襲ってくるほど気が荒いものが多い。ルールやら何やらと言っているうちに命を落としてしまうことは、幼子でもわかるだろう。
 しかし、それでもオレは納得がいかなかった。一言で言えば『つまらない』のだ。
 熱く燃え上がるような痺れるポケモンバトルがしたい。その気持ちは、ヒスイ地方の人間にはとても理解できないものらしい。ポケモンを理解しようとしているギンガ団という集団はいるようだが、スポーツの一種のような楽しみ方をポケモンバトルに求めている人間はいなかったのだ。

 そうやってヒスイで過ごしているうちに、少しずつ記憶が戻ってきた。自分の名前がデンジだということ。ジムリーダーというポケモンを戦わせる仕事に就いていたこと。ヒスイに来て仲間になったコリンクのしんか形であるレントラーを手持ちにしていたこと。シンオウ地方のナギサシティから来たということ。そして――ヒスイ地方とは、人間とポケモンが共存する前のシンオウ地方の姿だということ。
 シンオウ地方での記憶は、ブラックホールのような捻れた時空に巻き込まれたところで途絶えている。あれの影響で過去に飛ばされてしまった、と考えるのが一番自然だった。だったら、もう一度あの歪みに飛び込めば元の世界に戻ることができるのではないか?
 そこまで考えながらも、オレはそうしなかった。まだ、見付けていない。『レイン』という愛しい名前の持ち主と一緒でなければ、帰れない。

 オレはゆく先々で『レイン』の姿を探した。コンゴウ団の集落がある紅蓮の湿地はもちろん、オレが初めてヒスイに落ちた群青の海岸や、コンゴウ団と対なる組織がある純白の凍土、ツバキが世話するキングがいる天冠の山麓、クラフトの素材集めでよく訪れる黒曜の原野など、あらゆるところに足を運んだ。
 『レイン』が男なのか女なのか。子供なのか年寄りなのか。名前以外は何も思い出せなかった。セキが連れているシャワーズを見るたびに懐かしい気持ちになることはあったが、それ以外は何もわからない。
 しかし、『レイン』の姿が思い出せなくても、逢えばきっとわかる。そんな、不確かな確信があったのだ。

 そして、セキと一緒に訪れたコトブキムラで行われたギンガ団の団長との会合を終えて、集落へと帰ろうとしたそのとき。写真屋の表に飾られていた写真を見つけたとき、体中が雷に打たれたような衝撃が走った。
 イチョウ商会の制服に身を包み、オヤブンと思われるイーブイと一緒に写真に写っている、アイスブルーの髪と瞳の女性。彼女に、今すぐ会いたい。
 そう思ったときには走り出し、イチョウ商会のリーダーと話をすると言っていたセキの姿を追いかけていた。

「あとは、知ってのとおりだ。やっとおまえに会えたとき、オレは自然と『レイン』と呼ぶことができた。記憶を失っていても、レインはオレの心の一番あたたかい場所にずっといたんだ」

 レインが借りているという宿舎で。狭い布団の中でくっつき合って。互いの吐息が肌を撫でるほどの距離で。行灯の柔らか灯りに照らされたレインの髪を、瞼を、まつげを、頬を、唇を、輪郭を、指でなぞりながら存在を確かめる。レインはオレの話を、うん、うんと頷きながら聞いていたが、その頬に寄せているオレの手に自分のそれを重ねながら、目尻を下げて笑った。

「私は、逆だったわ」
「逆?」
「ええ。この世界に来て、いろんな既視感を覚えることはあったの。例えば、オーバ君と似ている人に出会ったりしたときとか……でも、デンジ君とよく似たギンナンさんと出会っても、私は既視感を覚えなかった」
「本当か? オレから見ても、他人の空似とは思えないくらいだったが」
「ふふ、そうね。……きっと、私にとってデンジ君という存在は、他の誰とも結び付けられないくらい特別なんだわ」
「……すごい殺し文句だな。それ」

 レインの頬に添えた手を顎へと滑らせて、持ち上げる。息を吸おうと小さく開いた唇に自分のそれを重ねる前に、ずっと呼びたかった名前を呼ぶ。

「レイン」
「ん、っ」

 唇の柔らかさ。ぎこちない舌の動き。柔らかな息づかい。咥内の味。薄い寝間着越しに伝わる体温。その全てが、オレが知るレインのものだった。
 どれだけキスをしていても足りないくらいだが、離れていた時間を埋めるように、その姿を瞳に映していたいとも思ってしまう。
 名残惜しく思いながら唇を離すと、甘く惚けた瞳と視線が絡み合った。少しだけ腫れぼったくなってしまった瞼に唇を落とし、罪悪感ごと抱きしめた。

「目、腫れてる」
「やっと逢えたことが嬉しくて、たくさん泣いちゃったから」
「……ごめんな。何があっても離さないと、約束したのに」

 ナギサシティの海岸で時空の歪みに巻き込まれたあのとき、必死に伸ばした手はレインの手を掴むことなく、指先から灰になるように消えてしまった。自分自身の消失よりも、レインの手を掴むことができなかったということが、今のオレにとってはよっぽど堪えた。
 だって、これは二度目なのだ。一度目のあのとき……レインが破れた世界へ連れ去られたときも、この手は空を掴んだ。あれほど絶望したことはなかった。もう二度とあんな思いをしないし、させないと心の中で固く誓った。この手を離さないと約束した。それなのに、オレは。
 ふと、レインの指先がオレの腕を撫でた。抱きしめる力を緩めると、レインはオレの手を取って目の前に持ってきた。力を込めた手のひらには爪痕がくっきりと刻まれていた。小さな三日月のような痕にそっと口づけ、レインはオレの手を両手で包み込んだ。

「大丈夫。だって、デンジ君はいつだって私のことを見つけてくれたから。貴方は私の光――太陽だから」
「……ああ。何度だって見つけてやる」

 そうだ。オレは何度だって、レインのことを見つけてきたじゃないか。
 レインが孤児院を抜け出して浜辺で泣いていたときも。レインがイーブイを追いかけてルクシオの群れに囲まれてしまったときも。レインがギンガ団のボスに捕まってしまったときも。
 レインが深海のような暗い場所に沈むたびに、オレは見つけ出してその手を引いて、光の下に掬い上げた。それだけは、変わることない事実。
 レインがオレのことを太陽のようだと言ってくれるのなら、オレはいつまでも光り輝き続けよう。世間にとっては無数に煌めくスターであっても、レインにとっては唯一無二の太陽であり続けよう。

「あとは、帰るだけだな」
「ええ。太陽に照らされ、海に愛された、私たちの街へ」
「明日からは帰る方法を探そう。もちろん、二人一緒に」
「そうね。時空の歪みを見つけられたら、今度こそ飛び込んでみましょう」

 オレはヒスイに来てから時空の歪みに遭遇していないが、レインはつい先日遭遇していたらしい。そのときは、見えない何かに引き止められるかのように、中に入ることを止めてしまったらしいのだが……。
 思い出すと、また胸の中から熱い何かがこみ上げてきた。記憶の奥底に眠っていたオレという存在が、記憶を失っていたレインの傍にずっといたのだとしたら。
 もう一度背中に腕を回す。オレの体にすっぽりと隠れてしまいそうな華奢な姿が、こんなにも愛おしい。

「でも」
「デンジ君?」
「……今は噛み締めさせてくれ」

 ――愛おしさで、どうにかなってしまいそうだ。

「ふ、んっ……デンジく……ぁ」

 くちゅり、くちゅりという唾液を絡め合う水っぽい音が、静かな空間に満ちる。角度を変えて、深さを変えて、啄むように、吸い付くように、レインの唇を堪能する。薄く目を開くと、オレからのキスに応えようと愛撫を返そうとしているレインの顔があった。本能的に「まずい」と思ったオレは、小さなリップ音を残して唇を離した。

「おわり」
「え……?」
「寝るか」
「え、ええ……」

 行灯の明かりを消すために布団を出る。炎が揺らめく蝋燭の先にふっと息を吹きかけると、部屋を満たすのは窓から差し込む月明かりのみとなってしまった。
 布団に戻って横になると、レインが不思議そうに、そして少しだけ物欲しそうに、オレの胸にすり寄ってきた。湯たんぽのようにすっかり温まってしまったその体を抱きしめて「おやすみ」と目を閉じる。しかし、腕の中からは「あ」と声が漏れ出てきた。

「……あの、大丈夫?」
「何が?」
「……えっと、あの……あの……」
「……気にするな」
「そう……言われても……」

 レインは恥じらうように身動ぎした。それもそのはずだ。だって、太もものあたりにはすっかり昂ぶってしまったオレの熱が当たっているのだから。
 仕方ないだろう。数ヶ月ぶりに再会した愛する女を抱きたくない男なんているはずがない。本音をいうと、今すぐにレインと繋がりたい。しかし。

「ここで本能のままにレインを抱くことは簡単だけど、万が一のことを考えたらやっぱりできない」

 避妊する術がない現状で、万が一ということが起こってしまったら、負担は全部レインにいくのだ。将来はレインと一緒になるのだという未来予想図も、覚悟も持ち合わせてはいるが、それとこれとは話が別である。
 レイン自身のことも、オレとレインの関係も、大切にしていきたいから。今は我慢のしどころだ。

「ふふふ」
「こーら。笑うな」
「ごめんなさい。……ありがとう、デンジ君」
「ん」
「大好き……」

 オレの頬に、柔らかな熱が触れる。歯の浮くような殺し文句を素でサラリと言えるくせに、自らオレに触れることは恥ずかしがるレインの、精一杯の愛撫だった。
 程なくして、腕の中から規則正しい寝息が聞こえてきた。子供のように無垢で、柔らかで、穏やかで、安心しきった吐息が、小さな唇から漏れていた。
 ……ここまで信頼されていては、やはり何もできるわけがない。

「……今日は眠れないな」

 苦笑しながらレインの前髪を掻き上げて、そこに現れた真白な額に唇を寄せる。きっと朝がくるまで、オレはこの無防備で愛おしい寝顔を眺め続けてしまうのだろう。



2022.05.11



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