そして雨は海へと還る


 帰りたいのに、帰れなかった。目に見えない何かが、私の本能が、私をこの世界に繋ぎ止めていた。それはいったい、何だったのだろう。
 わかっていることは、私の心の真ん中にある一番大切な部分は、相変わらず空洞になっているということだけだった。

「レインさん、一緒に普段着用の着物を選びに行きませんか?」

 天気のいいある休日のこと。宿舎でイーブイとぼんやり過ごしていると、ギンナンさんとルテアさんがやってきてある場所へと誘われた。誰かと話していると気分が紛れるかもしれない、と思った私は二つ返事で頷き、二人の後を追いかけるようにして宿舎を出た。
 連れてこられた先は、呉服屋だった。藤色をした瓦屋根の建物の戸は開け放たれており、美しい着物たちがその柄を見せつけ合うように飾られている。海や山などの風景や、特定のポケモンをイメージした歌舞いた着物。視線を集める特徴的な柄の道中着。忍者のような装束や、洋装もあり、さらには下駄やポケモンのお面といった小物の品揃えも充実している。

「レインさんの薄氷色の髪には、同じように淡い藍白色の着物が似合うと思うのですが、いかがでしょう?」
「そうだな。おれは、あえて濃い群青色を合わせると大人っぽくなると思うんだが、どー思う?」

 ギンナンさんとルテアさんは私の体に着物を当てながら、ああでもない、こうでもないと楽しそうに話している。私はただ、されるがままだ。嫌というわけではなく、むしろ美しい着物たちを前にして気分は高揚しているくらいだ。
 だけれど、私はてっきりルテアさんの着物を選ぶものだとばかり思ってついてきたのだ。まさか、私の分だとは夢にも思っていなかった。着物を買うようなお金がないことをこっそり告げると案の定、ギンナンさんは「気にしなくていいから」と笑ってくれた。それはすなわち、二人が代金を肩代わりしてくださるということで、私はすっかり恐縮してしまっているのだ。

「ここはその道の専門家に任せるとしよう」
「そうですね。シャロンさん、レインさんに似合う普段着用の着物を見立ててくださいな」
「お任せください!」

 黒と金のツートンカラーの髪を持つ呉服屋の店員――シャロンさんに案内された私は、履物を脱いで店内に上がった。衝立で仕切られた空間に案内されて、イチョウ商会の制服を脱いだかわりに、私が着つけられたのは藍白色の着物だった。永遠を意味するという流水柄に沿うように雨百合の花が咲いている。涼しげで清楚なデザインが凄く素敵だ。
 ギンナンさんとルテアさんのもとに戻ると、二人とも目を細めながら褒めてくれた。そのまま着物を着ていく流れになり、かわりに着ていた制服を包んでもらってから呉服屋を後にした。

「なるほど。ルテアの言うとーりだったな」
「ふふふ。可愛らしい色合いは若い人でないと着こなせませんから」
「ルテアにも似合うと思うが」
「ふふ、ありがとうございます。ギンナンさん。でも、わたしには結婚記念日のお祝いに頂いたこの着物がありますので」

 ルテアさんが身に纏っているのはイチョウ商会の制服ではなく、お休みの日にいつも着ている着物だ。青みがかった黒地に黄花玉簾という黄色い花が咲いているデザインが目を引く。帯も同じく黄色で、帯留めは雫のような水の珠だ。肩にかけられたかぎ編みのストールとの組み合わせもとても素敵だと常々思っていたけれど、ギンナンさんからの贈り物と聞いて納得してしまった。ギンナンさんが着ている着流しとのバランスも、とても合っている。

「ルテアさんの着物はギンナンさんからの贈り物だったんですね。素敵です! このストールは?」
「すとーる……? ああ、肩掛けのことでしょうか? これはわたしが自分で編んだものです。こう見えて、編み物や刺繍は少しだけ得意なのですよ」
「謙遜しすぎだ。レインさん。ルテアの刺繍の腕前は超一流で、呉服屋から依頼が来るほどなんだよ」
「すごい……! あの、よかったら今度教えていただけませんか? 私、お裁縫は最低限のことしかできなくって」
「はい、もちろんです。では、わたしにはお料理を教えて下さいますか?」
「えっ? どうして、私が料理好きだって……?」
「隣から美味しそうな匂いが漂ってくるからね」
「あ、そっか……」
「ふふ。どうでしょう?」
「私でよかったら、ぜひ」

 他愛もない話をしながら、コトブキムラの中をぐるりと歩く。アーチ状の橋を渡り、ギンガ団がゲットしたポケモンたちが過ごしている牧場を眺め、門の前を通り過ぎ、畑の脇を通る。すると、農作物を管理している畑作隊の隊長――ナバナさんが手を上げてギンナンさんへと声をかけた。

「よう! 今日は休みか?」
「ああ」
「そうして三人でいると、親子みたいだな! ははは!」

 ギンナンさんは他のコトブキムラの住人と接するよりも、ナバナさんに対してはいくらか砕けた印象だった。年齢や立場が近い、気のおけない関係なのかしら。

「レインさん?」
「あ、ごめんなさい。……なんだか、嬉しいなと思って」

 恥ずかしさを隠すように、頬を両手で包む。ナバナさんに言われた言葉が嬉しくて、自然と顔に出てしまっていたみたいだ。
 親子に見えるほど、私は二人と親密な関係になることができたのかしら。
 またアーチ状の橋を渡り、イモヅル亭の横を通ってソノオ通りへと出る。すると、青い着物を纏った男の人をギンガ団本部前で見かけた。コトブキムラでは見慣れない人だ。長髪をハーフアップにしていたり、左眉だけ切込みが入っていたり、ピアスを付けていたりと、ヒスイ地方で出会った人の中では派手な印象を受ける。
 男の人は紺色の制服のフードを被った付き人と一緒に、ギンガ団本部へと入っていった。

「あの人は……?」
「コンゴウ団の長かな」
「はい。確か今日はデンボクさんとの会合の予定だと伺っております」
「おれたちも後から挨拶しに行こうか」
「……コンゴウ団」

 コンゴウ団。シンジュ団と対を成す存在。

『コンゴウ団にもつい最近、ヒスイの外から来た新入りが入ったとセキが話していたような』

 数日前にカイさんから聞いていた言葉が、頭の中で何度も反響する。他の世界から来たというシンジュ団のキャプテンの話からは大きな情報を得られなかったけれど、もしかしたら、今度こそなにかわかることがあるかもしれない。
 ギンナンさんとルテアさんから宿舎前まで送ってもらっている間、私の頭の中はコンゴウ団でいっぱいだった。でも、私のことを気遣って連れ出してくれた二人にはしっかりお礼を言いたくて、玄関の前で深々と頭を下げた。

「ギンナンさん、ルテアさん。貴重なお休みにお付き合いくださってありがとうございました。それに、こんなに素敵な着物までいただいてしまって」
「高いものではないし、気にしないでいーから。レインさんには普段から頑張ってもらってるからね。臨時賞与として受け取ってくれたら嬉しい。……少しは気分転換になったかな?」
「はい。ありがとうございます」
「よかった。では、わたしたちはこれで。また明日」

 カタン。戸を閉めると、お留守番をしてくれていたイーブイが駆け寄ってきた。私が新しい服を着ていることに気付くと、目を輝かせながら飛び跳ねてくれる。思わず笑みが溢れてしまうくらい可愛らしい光景だ。
 包んでもらったイチョウ商会の制服を箪笥にしまい、膝を折ってイーブイを撫でる。返ってくる言葉が意味を持たないものとわかっていながらも、独り言のように話しかけた。

「確かコンゴウ団にも、ヒスイの外から来た人がいらっしゃる、とカイさんが仰っていたわよね」
「ブーイ?」
「その人に話を聞けないかしら……あ、でもコンゴウ団の長と一緒に来ているとは限らないのよね」
「ブイッ」

 コチ、コチ、コチ。秒針がやけに大きく聞こえてくる。悩んでいる間も時間はどんどん進んでいく。
 もしかしたら、会合を終えたコンゴウ団はすぐに紅蓮の湿地に帰るかもしれない。純白の凍土までとはいかないけれど、紅蓮の湿地もコトブキムラからは遠く離れた場所にある。今回を逃せば、次のチャンスはいつ巡ってくるかわからない。

「……悩んでいても仕方がないわ。とりあえず、ギンガ団の本部に行ってみましょう」

 行動せずに後悔するより、行動して無駄足を踏んだほうがまだマシだ。行動しなかった後悔は深く心に残る。けれど、何か一つでも行動に移したら、結果がどうあれ、そこから新しい道が開けるはずだから。
 私はイーブイを連れて宿舎を飛び出した。着物が乱れないように胸元を押さえながら、小走りでギンガ団本部の前に向かう。
 外から見たギンガ団本部は閑靜としていて、人の気配がなかった。入口前に立っている警備隊のスグルさんに話を聞くと「コンゴウ団の長ならついさっき帰ったところだよ」と言われ、慌てて踵を返した。
 来た道を戻り、表門に向かって走る。宿舎、雑貨屋、散髪屋、呉服屋、ナナシマ飯店と、景色が次々に後ろへと流れていく。そして写真屋の前を通り過ぎたところで、私は足を止めた。表門の手前で、ギンナンさんとルテアさんを見つけたからだ。

「ギンナンさん、ルテアさん!」
「おやおや? どーした?」
「あの、私もコンゴウ団の長にご挨拶をと思いまして……!」
「オレにか?」

 ギンナンさんとルテアさんが両脇に退くと、ギンガ団本部前で見かけた男の人がそこに立っていた。派手な装いに加えて、ギンナンさんよりもさらに高い長身に圧倒される。
 私は息を整えながら姿勢を正した。喉はカラカラだし、走ってばかりで足は震えているけれど、追いかけてきた目的を果たさなくちゃ。

「オレはコンゴウ団リーダーのセキ。時を司るシンオウさまを崇めるものだ」
「私は……」
「セキ!」

 私が名乗るよりも早く、背後からコンゴウ団の長――セキさんを呼ぶ声が聞こえた。その声を聞いた私の心臓は、揺さぶられるかのように激しく鼓動を刻み始めた。
 この声には、聞き覚えがあった。でも、どこで? これは誰の声?
 背後から足音が近づいてくる。口の中がいっそう乾く。指先が震える。

「おう、席を外した思ったらそんなに慌ててどーしたよ?」
「っ、あそこの、写真屋!」
「写真屋?」
「イーブイと一緒に写ってる、イチョウ商会の子に会わせてくれ!」
「あ、それは私で……す……」

 まさか自分の話題が出るとは思わなかった私は、何の心の準備もないまま慌てて振り向いた。その刹那。
 まるで、時が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。
 コンゴウ団の制服に身を包んでいるその人はセキさんと同じくらい背が高く、制服のフードを目深に被っている。フードから微かに覗いている海のように深いコバルトブルーの瞳が印象的で、少しだけギンナンさんと似ているなと思った。その人はコリンクを連れているけれど、気性が荒い気質が嘘であるかのようにコリンクは彼の足元に寄り添っている。
 ドクン、ドクン。心臓が耳元で鳴っているみたいに、うるさい。ヒスイ地方に来てから何度も感じていた既視感を軽く超えてしまうほどの懐かしさに、泣いてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
 ねぇ、あなたはだぁれ? どうしてそんなに、私のことを見つめているの?
 私が問うよりも先にギンナンさんが首を撚る。

「初めて見受ける顔だな」
「ああ。つい最近コンゴウ団に入ったんだ。というより、拾ったという方が正しいか。ほら、自己紹介」

 セキさんに促され、その人はゆっくりとフードに手をかけた。落ちたフードの下から現れたのは鮮やかな金髪だった。まるで、海を照らす太陽みたいだという感想が胸の中で生まれた瞬間。

「デンジ君、初めまして」

 私はそう、口にしていた。
 ギンナンさんも、ルテアさんも、セキさんも、きっとみんな不思議そうな顔をしているのでしょう。私自身、変なことを言ってしまったという自覚はある。初めて逢うその人の名前を呼ぶなんて、できるわけがないのだ。
 でも、それができるということは。
 予感が確信へと変わっていく。口の中は相変わらず乾いているのに、目がどんどん潤んでいく。
 それでも、目をそらすことはできなくて。一秒でも長く『貴方』を瞳に映していたくて。

「どうしてオレの名前を知っているんだ? レイン」

 『貴方』が自分自身の言葉に驚いている姿を見たとき、欠けていたパズルのピースがカチリと嵌ったかのような感覚がした。記憶の中で私を『レイン』と呼んでくれる優しい声と、『貴方』が私を呼んでくれた声が、一ミリのズレもないくらい綺麗に重なった。
 私の心に雨が降る。記憶という名の、雨が降る。その一滴が私の心に染み入って空洞を埋めていくたびに、私は一つずつ記憶を取り戻す。
 太陽と海に愛されたあの街から、私は、『私たち』は二人でこの世界に迷い込んだ。私の本能が帰ることを拒んだ理由は、目の前にあった。

「……っ、」

 最初の涙が溢れてしまえば、あとはもう止めることなどできなかった。
 瞬くたびに、雨粒のような涙が私の瞳から流れ落ちる。『貴方』を目に映したいのに涙が邪魔をする。でも、この涙を拭いたくはなかった。これは『貴方』を想って流す涙だから。
 『貴方』は私の名前を呼んだことをとても驚いているみたいだけれど、それは当然のことなのだ。だって。

「だって……レインという名前は……貴方が……っ、初めて私に……くれたもの……だから……っ」

 絞り出すように叫んだその瞬間。ふいに手を引かれた私が向かったのは『貴方』の腕の中だった。私の涙で制服がぐしょぐしょに濡れてしまうことも構わずに『貴方』は私を強く抱きしめた。もう二度と離さないというように、隙間もないほど強い抱擁の温度を、私は覚えている。
 そう、いつだって『貴方』は言葉よりも全身で愛を伝えてくれる人。 

「レイン!」
「デンジ君……!」

 ねぇ、やっと名前を呼べたね。 ――デンジ君。



2022.05.08



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