帰りたい、帰らない


 野生のポケモンとのバトルを繰り返しながら、私たちはようやく配達地であるシンジュ団の集落を訪れることができた。シンジュ団のみなさんは私たちを労り、温かいお茶でも飲んでいってほしいと集会所の中へ案内してくれた。火鉢で熱された湯の蒸気で集会所の中は隅々まで温まっていて、私とイーブイはほっと息を吐くことができた。
 藁座布団に座って出されたお茶をいただいていると、他のシンジュ団の人とは違う団服を着た薄着の少女が現れた。 

「わたしはカイ。シンジュ団を率いる深謀遠慮な長だ」
「はじめまして。イチョウ商会のレインと申します」
「遠いところご足労いただき感謝する。純白の凍土の寒さは慣れていない者には堪えるだろう。せめてゆっくり温まっていってほしい」
「ありがとうございます」

 シンジュ団の長――カイさん。見たところ、私よりもだいぶ年下のように感じる。ショウちゃんと同じくらいかしら。まだ若いのに堂々としていて、わざわざ挨拶に顔を出してくださるのだから、立派だなという感想が素直に出てくる。
 カイさんは私の向かいに腰を下ろしながら、不思議そうにあたりを見回した。

「イチョウ商会の来客は二人だと聞いていたのだが……?」
「あ、もうひとりは神殿に行きたいからと、集落に着いて早々に別行動をとることになりまして」
「そっか」
「……」

 私はお茶に視線を落とし、そこに映る私自身と視線を合わせる。シンジュ団の長とふたりきりなんて、こんな機会は滅多にないことだ。
 私は決意を固めて顔を上げた。

「あの、お聞きしたいことがあるんです」
「なんだ?」
「シンジュ団には、ヒスイではないどこかからやってきたキャプテンがいらっしゃるんですか? その人のこと、よかったら詳しくお聞きしたいんです」

 初めてヒスイ地方に来たその日に、ルテアさんから聞いた話が本当だとしたら、ここではない他の世界のことがなにかわかるかもしれない。その人が私と同じ世界からヒスイに来たという保証はないけれど、一つでも情報が得られるのなら縋りたい。
 カイさんは大きな目を瞬かせたあと、意外にもすんなりと「ああ」と肯定した。

「でも、シンジュ団が彼を見つけたとき、彼は記憶のほとんどを失っていたし、ヒスイにやって来たのも今から十年以上昔のことだ。当時の詳しいことはわたしにもわからない」
「十年以上……」
「境遇から考えると、ギンガ団のショウさんと似ているよね。彼女も……」

 カイさんが何かを話しているけれど、頭に入ってこない。冷静になるためにお茶を口に含んだけれど、まるで味がしない。体中の感覚が鈍ってしまったのかもしれない。それほどまでに、カイさんの言葉は衝撃だった。
 十年以上。その人は、そんなにも長い時間をヒスイ地方で過ごしている。自分が誰なのかもわからず、元の世界の記憶すら朧げで、毎日を必死に生きる生活を十年以上も続けているのだ。
 その人が、この地に根を張るのだと割り切れているのならばまだ救われる。ヒスイ地方で仲間や、その人の居場所ができたのだとしたら、ここで第二の人生を送るという考えもできるかもしれない。
 でも、私にそれができるだろうか。二度と帰ることができないけれど、帰りたい場所は確かにある。私の名前を呼んでくれる『貴方』のことを思い出せないまま、ずっとイチョウ商会のいち員として暮らしていく。ギンナンさんとルテアさんはとてもいい人だし、私がその道を選ぶのならば受け入れてくださると思う。
 でも、私には……割り切れそうもない。

「もしかして、あなたも?」
「……」
「……そう。何も力になれなくて申し訳ない」
「いいえ! 私の方こそ、突然こんなことを聞いてすみませんでした」

 気まずい空気を誤魔化すように、私は茶器の縁に口をつけた。もう中身は空っぽで、何も入ってはいないのだけれど。
 ふと、カイさんが思い出したように口を開いた。

「……そういえば、コンゴウ団にもつい最近、ヒスイの外から来た新入りが入ったとセキが話していたような」
「コンゴウ団? シンジュ団と対を成しているという、あの?」
「そう。もしかしたら、なにか情報が得られるかもしれない。紅蓮の湿地を訪れることがあったら、コンゴウ団の集落に足を運んでみるのもいいかもね」
「はい、そうします。ありがとうございます、カイさん」

 シンジュ団と対を成す集団――コンゴウ団。彼らに会うことができたら、私の道はまた変わるのかしら。確信はない。それでも、やっぱり、足掻かずにはいられない。いつか必ず、私の居場所に帰るために。


 * * *


「じゃあね、ウォロさん! お父さんとお母さんによろしく!」
「? お父さんとお母さん……?」

 体の芯までしっかりと温まった私は、コトブキムラに帰るために集会所を後にした。すると、ちょうどウォロさんが誰かと話しているところに遭遇してしまい、足を止めた。ウォロさんと話していたのは十代半ばほどの少女のようで、私が視線を向けたとき彼女はすでに背を向けて、アクアグレイの長い髪を揺らしながら走り去っていくところだった。

「ウォロさん」
「ああ、レインさん。配達をおまかせしてすみませんね」
「いえ、大丈夫です。あの、さっきの子は……?」
「さっきの? ……ああ。彼女はリーダーとルテアさんの娘さんですよ」
「えっ!? ギンナンさんとルテアさんの!? そういえば、一人はシンジュ団に所属していると仰っていましたね……結構大きいんですね」
「もう十五、六になると聞いていますから」

 ギンナンさんたちから聞いていたことだけれど、改めて本人を目にすると、実感するどころが現実味が遠のいていくようだった。ルテアさんはおそらく三十代で、十代半ばのお子さんがいても何ら不思議ではないけれど、ルテアさん自身がとても若く二十代にも見えるから、並んでみると親子というよりは姉妹のように見える気がしてならない。娘さんの顔を実際に見たわけではないから、想像でしかないけれど。
 そこまで考えて、ふと私は顔を上げた。ウォロさんの視線が私に注がれていることに気がついたからだ。

「あの、私の顔になにか……?」
「失礼しました! 女性の顔をジロジロと見るものではありませんね」
「いえ! それは構わないのですが、私がなにかしたのかなと……」
「本当に何でもありません。少し似ているな、と思っただけです。リーダーとルテアさんの娘さんと、レインさんが」
「え?」
「もちろん、ルテアさんとレインさんも」

 ウォロさんが「帰りましょうか」と言って雪道を進み始めた。追いかけるように歩き始める私に、ウォロさんは先ほどの続きを口にした。

「ああ! もちろん、似ているというのは見た目のことなので! 中身は全く違いますし」
「もちろんです。ルテアさんは優しくてとても慈悲深い人ですから、私が似ているなんてそんな……」
「……それは本気で仰っています?」
「……ウォロさん?」

 ウォロさんは穏やかな人ではあるけれど、表情は比較的くるくると変わる方だと思っている。遺跡や神話の話のときは目を輝かせ、ポケモンバトルの前では不敵な笑みを浮かべ、先日イモヅル亭で夕食を共にしたときに煮物を地面に落としてしまったときはガックリと肩を落としていた。
 そして、今は。一言で言うなら「信じられない」とでもいうように目を見開き、驚愕している様子だった。

「確かに、ルテアさんは常に慈愛に満ちた微笑みを浮かべている穏やかな方です。しかし、それは他人に優しさを分け与えるためではなく、自分自身を守るための一種の防衛本能から来るものですね。誰にも踏み込ませないように、誰にも傷付けられないように……と」
「ルテアさんが……?」
「あの微笑みにはおぞましささえ覚えるときがあります。レインさんも身に覚えがありませんか?」
「……あ」

 ヒスイ地方に来たばかりの頃、ルテアさんは「レインさん。あなたはとても遠くから来たのですね。それこそ、この世界のどこにも存在しない遠い場所から」と、私に言った。同情するわけでもなく、かといって面倒事を拾ってしまったと疲弊した様子でもなかった。
 ただただ、ルテアさんは何の感情も読み取ることができないたおやかな微笑みを浮かべていた。その微笑みは背筋を粟立たせ、胸の奥に冷たい何かを落としていった感覚を、私は今も忘れていない。それ以上に、髪を撫でてくれた手のぬくもりのほうが印象に残って、今の今まで忘れていたけれど。

「上手いこと化けているようですが、彼女の本質はそこですよ。人当たりが良さそうに見えて、踏み込んでくるものには容赦しない。……アナタも気をつけたほうがいい」
「……でも」
「まあ、リーダーが傍にいる限りは大丈夫でしょう。彼女を人間として繋ぎ止めているのは、彼がいるからこそでしょうから」
「……」

 ザッ、ザッ、ザッ。そこからは二人とも無言で歩いた。コトブキムラまでの道のりをひたすら、歩いた。純白の凍土を象徴とする雪がなくなるところまで来たところで「おっと。ジブンはこの辺で別行動を取らせていただきますよ。ムラまで帰れますね?」「あ、はい。ここまで来たら大丈夫です」「では!」と言ってウォロさんと別れてからは、彼が話してくれた言葉の意味を一人で考えた。
 ルテアさんに恐怖心を抱いてしまったことがあるのは、事実だ。それが一瞬だろうと、事実であることに変わりはない。でも。

「……ルテアさんの手は、あたたかかったのです」

 それもまた、紛れもなく事実なのだ。
 鉛のように重い考えを振り払うように首を振る。下げていた視線も上げた。足元ばかり見て歩いているから、暗い考えしかできないのだ。前を見て、遠くを眺めて、景色を楽しみながら帰れば……。

「え?」

 距離にして一キロメートルほど先だろうか。ブラックホールを連想させるような常闇色の壁が、大きなドーム状に出現している。バチリ、バチリと電気が弾けるような光が、壁の外を走っている。
 記憶が戻ったわけではない。でも、本能的にわかった。あれは。

「あれは、時空の歪み!?」

 私は考えるよりも先に走り出した。コトブキムラと純白の凍土を往復している途中でクタクタのはずなのに、私の足は無我夢中で動いてしまう。

「あれに飛び込んだら、もしかしたら……」

 元の世界に、帰ることができるかもしれない。その一心で、走った。
 走って、走って、心臓が破れてしまうのではと思うくらい、全力で走って――そして、足を止めた。浅い息を繰り返し吐きながら、後少しというところまで迫った時空の歪みを前に、ただ立ち尽くした。
 確かに、あれに飛び込めば元の世界に帰ることができるかもしれない。でも、私はそうしなかった。できなかった、のだ。
 まだ、私にはこの世界でやるべきことが残っている。そんな気がして。


 * * *


 日が昇る前から出発していたというのに、コトブキムラに帰り着いたときには太陽がだいぶ傾いていた。私はまっすぐにイチョウ商会の荷車が停まっている場所へと向かう。いつものように腰掛けに座って商売をしているギンナンさんの姿を見つけると、なんだか安心してしまって表情も気持ちもじんわりと緩んでいった。

「おかえり、レインさん」
「ギンナンさん。ただいま戻りまし……」

 帰宅の言葉を遮って、お腹の虫が主張を始める。一度恥ずかしい思いをしたというのに、どうしてこうも空気が読めないのだろう。お腹を抑えてどうにか止めようとしてみても、一度聞かせてしまったものは取り消すことができない。帽子のつばを下げたギンナンさんの肩が震えていることが、私の羞恥心を募らせる。

「おやおや」
「ごめんなさい……」
「今日はルテアが休みだから、菓子を作ると言っていたよ。行ってみようか?」
「ルテアさんの手作りのお菓子……!」

 ギンナンさんは「休憩に行ってくる」とツイリさんに断りを入れて、私と一緒に宿舎へと戻った。戸を開けると、美味しそうないい香りとルテアさんの微笑みが私を迎えてくれた。
 一瞬、ウォロさんの言葉が頭をよぎっていったけれど、私はギンナンさんに招き入れられて宿舎の敷居を跨いでいた。

「おかえりなさい、レインさん。ちょうどズリのみを使ったおやきを作っているところです。ギンナンさんと一緒に召し上がっていきませんか?」
「お言葉に甘えよーか」
「わぁ、いいんですか?」
「ええ。わたし、ズリのみが大好きなんです。ですから、ぜひレインさんにも食べていただきたくて」
「……そうか。ルテアはズリのみが好きだったね」
「はい。子供のころから大好きなのです。好きになったきっかけは覚えていないのですが……あ、焼けましたよ。レインさん、どうぞ」
「ありがとうございます! いただきます! ……んっ、美味しいっ!」
「ふふふ、よかった。たくさん食べてくださいね」

 ズリのみを使ったおやきを頬張る私を、ルテアさんは微笑ましそうなあたたかな眼差しで見守ってくれている。まるで、母が子に向けるそれのように。
 私はウォロさんの言葉と、かつて私がルテアさんに抱いた感情にそっと蓋をした。目の前にいるルテアさんのことを、しっかりと見つめるために。



2022.05.06



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