深淵に咲いた向日葵


 刺すような冷たさが指先を悴ませる。視界は白に閉ざされて、吐く息さえも白く濁る。一歩、また一歩と足を進めるたびに、靴底はキュッと音を立てて新雪を踏む。私たちが残した足跡は、新しい雪に埋もれてすぐに見えなくなってしまう。

「……綺麗」

 純白が舞う見渡す限りの白い世界は、恐怖すら感じさせるほどの美しさで私たちを迎えた。だけれど、何故か懐かしさを覚えずにはいられなかった。ヒスイ地方に来て、何度も感じているデジャブだ。きっと、私はかつてこの景色と似た場所に立ったことがあるのだと思う。

「それにしても、驚きました。まさかジブンと一緒に配達を任されることになったのがレインさんだったとは!」

 隣を歩いているウォロさんは、いつものように明るい敬語で私に話しかけてくれる。私に合わせて歩幅を狭めて歩いてくれているけれど、雪道を歩き慣れたその足取りから何度もこの地に足を運んでいることがわかる。

「しかも純白の凍土はコトブキムラから遠く、生息しているポケモンだって強いですからね。リーダーもレインさんのポケモン使いとしての腕を買っているのでしょう」
「そんな。私は……」

 ギンナンさんから『純白の凍土にあるシンジュ団の集落まで配達をお願いしたい』と言われたことは、事実だ。シンジュ団の集落は純白の凍土の最奥に位置しており道のりは遠く、さらにそこは厳しい寒さに覆われた土地で、過酷な環境に生き残った強いポケモンたちばかりが生息しているという。
 そんな土地には確かな強さを持った人しか派遣できないから、と言われた私は、ギンナンさんからの信頼に答えるために首を縦に振ったのだけれど。それは、一緒にいるウォロさんにも当てはまることだ。

「私よりも、ウォロさんのほうが頼りにされているのだと思います」
「いえいえ、自分はしがないトゲピー使いですよ。レインさんと出会ったときも、うまく指示を出せず……」
「えっ?」

 ウォロさんの言葉を遮って、思わず声を上げてしまった。
 初めて会ったとき、今は私の手持ちとなった野生のオヤブンイーブイを相手に、ウォロさんはトゲピーと一緒に戦ってくれた。そのときの技の選び方やタイミングは、お世辞にも『ポケモンバトルが上手い』とはいえないものだった。けれど。

「あれは、わざとそういうフリをしているのだと思っていました」
「……なぜ、そう思うか聞いても?」
「なぜ、と言われても上手く説明できないのですけど……本当はもっと効果的な技の出し方を知っているのに、あえて拙さを出していると感じたというか……」
「……」
「それに、ギンナンさんがこんなに遠いところまで配達を任せるのは、やっぱりポケモンバトルの強さを信頼しているからだと思うんです」
「ふふふ。買いかぶり過ぎですよ! ジブンは遺跡と神話をこよなく愛する商人に過ぎませんからね!」

 不思議だった。やっぱり、私にはウォロさんが『本来なら強いバトルの腕前をわざと隠している』ようにしか見えなかったのだ。それは私の『ポケモントレーナーとしての本能』としか説明しようがない、あまりにも不確かな理由だけれど。

「まあ、それなりに戦えないと生き残ることができないのは事実ですが」
「!」

 私たちの目の前に、見たことのないポケモンが姿を現した。薄い灰色の体毛を隠すように、白い鬣が前に盛り上がっている。体毛や手足の所々に見える赤色は、血や痣を思わせるほど不気味だった。まるでこの世の全てを憎み、呪い、恨んでいるかのような鋭い敵意は間違いなく私たちに向けられている。

「いきますよ、レインさん!」
「はい!」

 私はイーブイを、そしてウォロさんはフカマルを繰り出して、見たこともないポケモンを相手に共闘した。
 そして、私は実感したのだ。やっぱり、ウォロさんの実力はこんなものではない。もっと、それこそ史実に名を残すほどのポケモンバトルの腕前を秘めているのではないか、と。


 * * *


「そういえば、レインさんにお聞きしたいことがありまして」

 氷山ベースで休憩を取っているとき、ウォロさんがおもむろに問いかけてきた。小さく弾けるように燃えている焚き火の向こうでは、ウォロさんが人差し指を立てながらこちらに身を乗り出している。

「なんでしょう?」
「レインさんはヒスイ地方の外からいらっしゃったというのは本当でしょうか? 噂では、シンオウと呼ばれる土地から来られたとか」
「はい。といっても、記憶が不確かだから本当かどうかは私にもわかっていないんですけど……シンオウ地方のナギサシティ。そこが、私の帰る場所なんじゃないかって思っています」

 記憶の中に残っている『シンオウ地方のナギサシティ』という土地の名前を口にすると、やっぱりどこか懐かしいような気持ちになる。それは海を見たときの感覚とよく似ていて、もしかしたらナギサシティは海辺の街なのかもしれないということを今更気づいた。

「シンオウ……コンゴウ団とシンジュ団が崇めるシンオウさまという存在と同じ名の世界……もしかして、そこにも神話が残されているのではありませんか?」
「そう、ですね。言われてみたら、シンオウ地方は他の地方と比べても神話が多いことが特徴の一つでもあったような……」
「ぜひ! レインさんが覚えている神話をジブンに聞かせてください!」

 ウォロさんの髪で隠れていない方のシルバーグレイの瞳が、好奇心という名の光で輝いていることが、ここからでもわかる。
 個人差はもちろんあるけれど、商人のみなさんは好奇心が強い人が多い気がする。というよりも、なにか一つのことを専門的に得意とする人が多いというか、強みを持っている人が多いというか。
 ギンナンさんだったらクラフトやモノの修繕などの手作業を得意としているし、ルテアさんは刺繍などの繊細な作業が得意だと聞いている。それを自分の強みとして認識し、商売に活かすために技術や知識を追求することは、好奇心や向上心がないとできないことだと思う。
 それと同じように、ウォロさんは歴史や神話に関する知識が豊富で、それをさらに追求する好奇心を持っている。その好奇心の強さが、ギンナンさんやルテアさんのそれよりもさらに上を行っているような、そんな気がする。

「ウォロさん、歴史とか神話が本当にお好きなんですね」
「ええ! イチョウ商会の仕事をサボ……合間を縫って遺跡を巡る程度には!」
「ふふ。……私が記憶していることですから、それが確かなことかはわかりませんが、それでよかったら」

 私は不確かな記憶の引き出しを一つずつ開けながら、覚えている限りの神話や伝説を火の粉の音に乗せて話した。
 ポケモンと結婚した人間の神話。ポケモンの骨を水に流すと肉体を得て戻ってくるという神話。剣を手に入れた若者の神話。海の王子と呼ばれたポケモンの伝説。世界を二分する戦争を鎮めた勇者と聖女の波導伝説。

「他に私が覚えているのは……シンオウ神話の万物創造でしょうか」
「……ほう? 詳しくお聞きしても?」

 今まではうん、うんと頷きながら話を聞いていたウォロさんだったけれど、ここに来て雰囲気が変わった、ような気がした。でも、私はさほど気にせずにすっと息を吸うと、覚えている限りの創世神話を歌うように紡いだ。

「初めにあったのは混沌のうねりだけだった。全てが混ざり合い、中心に卵が現れた。零れ落ちた卵より、最初のものが生まれ出た。最初のものは二つの分身を造った。時間が回り始めた。空間が広がり始めた。さらに自分の体から、三つの命を生み出した。二つの分身が祈ると「物」というものが生まれ、三つの命が祈ると「心」というものが生まれた。世界が造り出されたので、最初のものは眠りについた」
「その『最初のもの』というのは?」
「……混沌のうねりより誕生し、千本の腕により、宇宙と全ての世界を生み出した。そのポケモンの名を……」

 なぜかしら。言葉が出てこない。私は以前、同じようにこの神話を口にしたことがあった気がする。そのポケモンの名前まで辿り着いたことがあった気がする。それなのに、まるで『今その名前を口にしてはいけない』とでもいうように、私の記憶が言葉にすることを拒んでいるみたいだった。

「ごめんなさい。私が覚えているのはここまでで……ウォロさん?」

 ウォロさんは……笑っていた。それはいつものような人懐っこい笑顔ではなくて、深淵の底から空を見上げているような、憧れと狂信が入り混じったような笑みだった。

「ウォロ、さん?」
「ふふふ。ありがとうございます、レインさん。アナタと配達に来ることができてよかった。実に有意義なお話を聞くことができましたから」
「そう、ですか? ウォロさんのお役に立てたのならよかったです」
「ええ、とても。さあ、そろそろ行きましょうか。配達先のシンジュ団の集落までもう少しです」

 ウォロさんが差し出してくれた手を、何の迷いもなく取って立ち上がった。ずっと焚き火に当たっていたはずなのに、ウォロさんの手は酷く冷たく、まるで自分以外の全てから触れられることを拒んでいるかのようだった。



2022.05.04



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