在るべき姿へ戻るために
空の色を映している蒼は、水平線の向こうまで果てしなく続いている。白波が寄せては返っていく様子は、まるで海が呼吸をしているみたいだ。潮の香りを含んだ風は、肌を撫でるように優しく大地へと吹き込んでくる。蒼穹の真ん中には、生きるもの全てを導くように太陽が光り輝いている。
何の変哲もない、見慣れている風景だ。それなのに、どうしてこんなにも特別なもののように感じてしまうのだろう。
「イチョウ商会さん、署名しておいたよ」
海に意識を奪われていた私は、慌てて目の前に視線を戻した。
「はいよ」
「あ、ありがとうございます。またのご利用をお待ちしていますね」
「ああ。ムラまで気をつけてお帰り」
浜辺に佇んでいる小屋まで配達を終えた私は、サインを受け取るとコトブキムラまでの道のりを引き返し始めた。といっても、この浜辺もコトブキムラの一部のようなもので、平門との間に野生のポケモンが出現することもなく、幾分か緊張感を緩めることができる。
射的などの訓練をするための野外練習場まで戻ると、私はもう一度振り返った。確かこの海は『始まりの浜』と呼ばれているらしい。
「……海を見ると、どうしてこんなに不思議な気持ちになるのかしら」
ヒスイ地方で初めて目覚めたときも、目の前には海が広がっていた。その海を見て懐かしいような、でも寂しくて泣きたくなるような、言葉として言い表せない感覚を抱いたことをまだ覚えている。
でも、一つだけ確かなことがある。
「私のことを見守ってくれるような深い青色も、私のことを導いてくれるような眩しい輝きも、きっと私にとって特別な存在なのね」
私は――海が好き。
この海はきっと、私の記憶の奥に眠っている海とは違う海だけれど、全ての海は繋がっているのだとしたら、この海を超えた先に私の海があるかもしれない。そう考えると、なんだか自然と勇気づけられてしまうのだ。
「いつ元の世界に帰ることができるか、なんてわからないけど……今できることを精一杯頑張らなくちゃね」
ぺちり、と両手で包み込むように頬を叩く。気持ちを切り替えていかなくちゃ。
「さあ、イーブイ。これで今日の配達はおしまいね」
「ブイッ」
「ギンナンさんは配達が終わったら今日は上がっていいと仰ってくださったし、夕食の時間までまだ余裕があるから……今日も行きましょうか」
最近、私たちには新しい日課ができた。イチョウ商会のいち員として働いて、ギンナンさんそしてルテアさんと一緒にイモヅル亭で夕食をいただく。その間、時間に余裕ができたときに、私たちはある場所を訪れるようになったのだ。
「行きましょう、訓練場へ!」
* * *
訓練場とは、コトブキムラの北西に位置する施設のことだ。主に警備隊のみなさんが、自身やポケモンたちを鍛えることに使用している。道場の中では剣術や弓術などを鍛錬することができるけれど、やはり目立つのは道場の外に設けられたポケモンバトルのフィールドだ。
訓練場に足を踏み入れると、鍛錬をしている警備隊のみなさんの中でもひときわ目立つ長身の女性――ペリーラさんが視界に飛び込んできた。
「ペリーラさん、こんにちは」
「おう! イチョウ商会の!」
「今日も訓練場を貸していただけますか?」
「ああ! ギンガ団でなくても、強くなりたいやつはいつでも大歓迎さ! 好きに使いな!」
「ありがとうございます」
警備隊長のペリーラさんの許可を得た私は、訓練場の片隅に向かった。そこには弓を引く練習用の巻藁や、刀の試し斬りを行うための畳表がずらりと並んでいる。そのうちの一つの前に立ち「イーブイ」と声をかける。
「アイアンテール!」
「ブーイッ!」
イーブイは宙で一回転しながら尻尾を硬化させ、畳表に振り下ろした。着地したらまたすぐに高く跳び上がり、二度、三度と尻尾を叩きつける。狙いは全て畳表の中央に命中。威力もまずまずだ。
「いい調子よ、イーブイ」
「ブイッ」
「次は巻藁に狙いを定めて……シャドーボール!」
「ブイブイブイッ!」
尻尾に黒い影の塊を纏わせて、振り投げて飛ばす。黒い影の塊は三つとも巻藁に命中し、その威力で藁がハラハラと散った。
イーブイを撫でながら褒めていると「やるねぇ」という声とともに手を叩く音が聞こえて振り返る。ペリーラさんだ。
「そのイーブイ、やるじゃないか。よく鍛えられてるね」
「ありがとうございます。この子、イチョウ商会の仕事が終わってから、ここで技の練習をすることをとても楽しみにしているみたいで」
「ブイッ」
「イーブイはもちろんだけど、あんたもね」
「え?」
「訓練場でのあんた、なんだか生き生きしているよ!」
ペリーラさんは豪快に笑うと、私の背中を勢いよく叩いた。数歩よろけながらも、その笑顔に引っ張られるように私も笑ってしまった。
物を売ったり、仕入れたり、配達したりと、イチョウ商会の仕事は何もかもが未知なることで、それを経験させてもらえるのはとても楽しいし勉強にもなる。でもそれ以上に、私はポケモンと一緒に戦うことに喜びを感じていた。それはきっと、ヒスイ地方に来る前の私が、常にポケモンとともに在ったからだろうと思う。どんなポケモンと一緒にいて、どんなことをしていたのか、未だ思い出せないけれど。
「せっかくだ。うちのと戦っていくかい?」
「いいんですか?」
「ああ! お互い、いい刺激になるはずだよ! おーい、タキ!」
「はい!」
ペリーラさんに呼ばれてやって来たのは、タキさんという男性の警備隊の方だった。確か警備隊の中でも、ポケモンバトルに優れた方だと記憶している。訓練場でバトルをしている様子を、何度か外から見たことがあるから。
「レインとイーブイの相手をしてやんな。タキにとってもいい経験になると思うよ」
「そんな。私たちの方こそ、胸を借りるつもりで挑ませてください」
「ははは! ご冗談を! イチョウ商会の新入りさんのポケモン使いとしての噂は聞いていますよ。全力でお相手しましょう!」
タキさんと私はそれぞれ、バトルフィールドの反対側へと向かった。私が勝負に出すのは、もちろんイーブイだ。対して、タキさんは……。
「ガーメイル、行くぞ!」
ガーメイル。むしとひこうタイプの複合ポケモンだ。物理攻撃力と特殊攻撃力、共に優れていながらも、やや鈍足で耐久力も高いとはいえない。
それならば。相手が攻撃を仕掛けてくる前に、それ以上の素早さで倒す。
ペリーラさんが「はじめ!」とバトル開始の合図を出してすぐに、イーブイに指示を出す。
「イーブイ、でんこうせっか!」
「ブイッ!」
「ガーメイル、エアスラッシュ!」
イーブイは、ガーメイルの翼が放った空気の刃を素早い動きで躱していく。強力な攻撃も、当たらなければ何ということもない。タキさんの焦りがガーメイルにも伝わって、それがなおさら技の精度を鈍らせる。
「っ、速い!」
「スピードスターよ!」
イーブイが尻尾を大きく振ると、星型の光が発射されて逃げようとするガーメイルを追撃した。攻撃が命中したガーメイルは地に落ちて、目を回したまま気絶してしまった。
私たちの勝ち、だ。
「やったわ!」
「ブイブイッ!」
「こりゃ参った。さすがはイチョウ商会だな」
タキさんはガーメイルを抱き上げながら感心したように言った。その言い方が少しだけ引っかかった私は、思わず首を傾げてしまった。
「さすが、というのは……?」
「イチョウ商会は危険が蔓延るヒスイ地方を渡り歩いているんだから、みんなポケモンを使うのが上手いって意味だ」
「……そう、なのかしら」
言われてみたら、確かにそうだ。イチョウ商会はヒスイ地方を渡り歩きながら物を売ったり、珍しい物を仕入れたりしている。ヒスイ地方がどれだけ危険な世界であるかは私自身も身を以て経験したから、わかる。旅をしながら商いを営むには、強いポケモンの協力が必要不可欠だ。
でも、私は今までイチョウ商会のみなさんがバトルをしているところをあまり見たことがない。ルテアさんがリオルに波導のバリアを命じたり、ウォロさんがトゲピーを戦わせているところは見たことがあるけれど。
もしかしたら、彼らはまだ見たことのない実力を秘めているのかもしれない。
「レインさん」
「! ギンナンさん」
戦いに夢中になっていて、ギンナンさんが訓練場まで迎えに来てくださっていたことに気付かなかった。タキさんに頭を下げた私が急いでギンナンさんのもとに駆け寄ると「焦らなくてもいいよ」とギンナンさんは笑ってくれた。
「自分の好きなことが見つかったようでよかった。息抜きは大事だからね」
「! ギンナンさんからも、そう見えますか?」
「も、というのは?」
「訓練場にいるときの私は生き生きしているって、ペリーラさんから言われたんです」
「なるほど。確かに彼女の言うとおりだ。本来、レインさんはポケモンとともに戦う仕事に就いていたのかもしれないね」
「ポケモンと……」
「それに、ギンガ団の警備隊を下すとはやはりなかなかの腕前のようだ」
「そんな。イーブイが頑張ってくれたから」
「ブイブイッ」
誇らしげに胸を張るイーブイの頭を撫でながら、ギンナンさんはしばらく考え込む素振りを見せたと思うと。
「きみのポケモン使いとしての腕を見込んで、頼みがある」
私に『頼み』を切り出したのだった。
2022.05.02